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南砺を旅する

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静かに守り継がれた伝統と、新しい文化の息吹が同居するまち。
福野は四季折々に彩る景色と笑顔に包まれて、
訪れる旅人にとっておきの思い出を残してくれる。
 

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明治30(1897)年5月4日、「中越鉄道(株)」が開業。黒田(現高岡駅)~福野間は、富山県・石川県で初めての鉄道。鉄道は文明開化の象徴であり、珍しく、人びとはおにぎり持参で線路脇で「上りは何本で、下りは何本かな」などと話しながら一日中「陸蒸気」を眺めていた。駅舎は開業当初から使われ、今も現役の木造駅舎。日本海側では秋田より南では最も古い駅舎。
南砺市松原新1767 ☎0763-22-8700
南砺市観光協会福野観光案内所

 

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新町曳山は、古文書によれば、文政3(1820)年頃に作られ、神明社の例祭に曳き廻された。当時、疫病の流行や天災は神の仕業と考えられ、神を鎮めるため日々の安泰と豊穣を祈ることを目的として曳き山が行われた。昭和14(1939)年まで巡行していたものの、 その後長らく休眠状態にあり、復活したのが平成17(2005)年 であった。年間、幻の曳山とされてきた。曳山の本座の部分は舞台のように 橋が架けられ、謡曲「橋弁慶」を主題にした弁慶と牛若(源義経)の人形が据えられている。硯屏(けんびょう)は、井波彫刻でつくられた「水波に龍」「松竹梅に虎・雲に麒麟・唐子遊びなどの精緻な彫りに金箔が施されている。高欄の欄間は、漆塗りでホゾ構造による組立て式です。鉾留(ほこどめ)は、ほら貝。

 

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富山県内唯一の明治期の学校建築。明治36年4月、富山県立農学校校舎として建設される。和洋折衷2階建てで明治以降の代表的な建築。昭和62年「富山県の建築百選」に選定。平成9年5月、国の重要文化財に指定。コロニアル様式という木造下見板張りペンキ塗り、上げ下げ窓の西洋建築のデザインを基本とし、玄関ポーチ部分は、建物から突き出しているが、その上方は、ベランダとなっているだけで、2階の壁面は、まっすぐに通っている。ただポーチの上の窓だけがギリシャ風の飾り窓になっていて、その上方、2階屋根に特徴あるゲーブルが乗る。建物の床は高く、玄関の開き扉の上は、当時としては珍しい半円形の欄間となっている。明治時代の地方の大工棟梁が独自に洋風の意匠を摂取し習熟した様子を示す典型的な建造物として貴重である。南砺のアニメ制作スタジオ「P・A・WORKS(ピーエーワークス)」が作ったアニメ「Another(アナザー)」の舞台モデルにもなっている。
南砺市苗島443☎0763-22-2014 
※高校の休日や当番の先生が不在の時は見学不可

 

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ギャラリー樫亭は、昭和5〜8年に旧福野町長を務めた篠塚六郎氏(故人)の和風邸宅の一部で、広さ約300坪。六郎氏が住んだ当時は、よく俳句会が開かれ、文化人の交流の場だった。六郎氏の俳号(半木)にちなんだ茶室「半木庵(はんぼくあん)」と数寄屋風の座敷「樫亭(かしてい)」の原形を保ち、傷んだ部分を修復した。ギャラリーは身障者用のトイレを設置し、幅広い団体が利用できるように配慮。市民の交流空間として陶芸家や染織家による個展やお茶会などを定期的に行う。また、平成19年の本庭の大改修の時、西北の隅に隠れるように有った高浜虚子が詠んだ句「この庭や樫の落ち葉のとこしなへ」の句碑を、台石を作り、樫の木の下に設置しました。この句は、虚子の書をそのまま写して彫ってあり、落款も有している。
南砺市福野御蔵町1328-1(福野交番署隣)
☎0763-22-2874 ※見学は要予約

 

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元料亭旅館「福島」の先祖に、四股名を福島とする茂吉が居た。茂吉は、北陸7ヶ所国力士年寄りにまでなった力持ちであった。慶応3年に茂吉の門弟らが供養碑と守本尊不動尊を並べて建てたが、石碑は道路拡張に際し、現地に移転し不動尊と離れた。不動尊の西隣の浄土宗蓮生庵の庵主が「不動様が雨露にさらされぬようお堂が欲しい」とのお告げを夢みた。道路向側には常盤館砺波ホテルが繁盛していたが、隣主黒川由次郎がこれを聞いて早速お堂を寄進した不動明王は58cm座像。

 

 

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明治中期、夜な夜な真夜中になると泣き声が聞こえ泣き止まなかったので、地蔵菩薩像を作って貰い、御堂を夜泣きのする方角に建立し、お経をあげて供養をしたところ、夜泣きがばったりと止んだという。御堂は、小ぶりで町の宮大工佐々木嘉平の造り。台座の石組みはお堂に調和する丁寧な造り。彫刻は、井波の野村清太郎作(清雲の銘)で見事。本像は、庄川産金谷石、作者不詳。

 

 

 

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浦町から恩光寺の参道へ入るとすぐ右手に銅板葺きの大きく立派な地蔵堂がある。お堂は大正初め、町の宮大工佐々木嘉平が建て直す。彫刻は井波の岩倉理人。お地蔵さまは、180年以上前、文化2年頃多くの人びとの懇志により造られた。御影石造りで精巧な彫り。当時地方に御影の石屋は居なかったので、瀬戸内からはるばる呼び寄せた。歯の痛い人は自分の用いていた箸をお供えしてお参りすると功徳があると伝えられている。

 

 

 

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曹洞宗。開祖は応永10(1403)年或いは15年。新川郡上市町眼目(さっか)立川寺の末寺。戦国時代に増山城(現在の砺波市にある国の史跡)の城主であった神保氏の菩提寺。福野の町立ての翌々年に大火があり、町の再建にあたり、阿蘇三右衛門翁(福野町の開祖)は承応2(1653)年庄金剛寺村より当時無住の寺である恩光寺を福野へ移した。秋葉大権現も同時に勧請(かんじょう)された。毎年9月8日に秋葉祭りが行われ火渡りの行事はいまに続く。山門は南砺市指定文化財。
南砺市福野1803 ☎0763-22-2379

 

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祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)・豊受大神(とようけびめ)・大己貴神(おおなむち)。慶安5(1652)年、町が大火でほとんど焼けたとき神仏の加護を求めて町の有力者らが伊勢大神宮の御分霊を迎えたと言われる。境内神社に天満宮と稲荷社がある。天満宮は菅原道真公、稲荷社は倉稲魂神(うかのみたま)を祀る。5月1日から3日までの春季例祭では、福野夜高祭や福野曳山で多くの見物客で賑わう。

 

 

 

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人よせ石
昭和7年、野口雨情が福野へ来て夜高節新歌詞を5首作った。その中に、「福野四つ角 人よせ石は ひるの日中も寝てばかり」という詞がある。野口雨情が福野を訪れた当時は、この詞のとおり、銀行四つ角(10)に人よせ石があったと考えられる。現在は、拝殿に向かって左の本殿前の玉垣の下にある。正面に「六十三〆(貫目)」、右側面に「梅が嶋村 今井政次郎」、左側面に「願主 佐々木 嘉三太郎」と刻まれている。(※63貫は、約236kg)佐々木嘉三太郎は社寺建築の名工であり、明治末期に辰巳町に和倉温泉の湯を運んで銭湯「平和湯」を営んだ。その宣伝に銀行四つ角で盤持大会を催し人々を寄せ集めた。この時、この石を担ぎ上げたのが力持ちで鳴らした梅ヶ嶋村の今井政次郎である。

 

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この四ツ角は「卍が辻(まんじがつじ・「かねおりつじ」とも)という。江戸時代の城下町の四ツ辻は城下へ進入した敵が前方を見通せないように、曲尺(かねじゃく)をずらして交差させたように設計した。ところが福野は城下町ではなく、市場町として町立されているので、何故卍が辻になっているのかは謎である。また、藩政時代には掟書き(おきてがき)、法度(はっと)、禁制(きんせい)などを公衆に知らせるために盛り場や四ツ辻などの高く板札を掲げた。これを高札(こうさつ、たかふだ)、または制札といった。

 

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南砺男子とは
南砺の「魅力発信」プロジェクト。南砺で活躍する男性らの「格好(かっけ)ぇ~」を発信する。
自然、歴史、文化、産業・・・様々な魅力のあふれる南砺。
それらに携わる「南砺ならでは」な人びと(男性)を、「格好ぇ~」をキーワードに集め、発信する。


まち歩きx南砺男子(なんとだんし)
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