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南砺男子

各エリアごとに南砺男子を紹介しています。


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株式会社合掌の物語りん
代表取締役社長 荒井 崇浩 氏

 

プロフィール
昭和53年生。
高校卒業後、県外の大学、大学院へ進学。
東京の建設コンサルタント会社に就職後、
2005年に故郷の菅沼集落に戻る。

 

 上平地区にある菅沼集落は、平地区にある相倉集落とともに富山県が誇る世界遺産だ。
菅沼集落の合掌造り家屋は9戸。すぐ身近に山からの落雪を防ぐ「雪持林」と、屋根を葺く茅が生い茂る「茅場」がある。家屋だけでなく、これら生活に欠かせないものすべてが、日本の原風景ともいうべき景観を形づくっている。荒井崇浩さんはそこで「土産・お休み処あらい」の店長を務めながら「株式会社合掌の物語りん」を立ち上げた。そこで合掌造りの屋根材となる茅の保全をはじめ、地域づくりに取り組んでいる。大学・大学院時代、地域づくり畑を歩んできた。東京で都市計画系の会社に努めた後、故郷の菅沼集落に戻ったとき、地域づくり熱に再度火がついた。しかし、当初は周囲から反発され、ようやく長老から「好きにやっていいよ」とお墨付きをもらったのは帰省して5、6年後のこと。いまも茅を活用した商品開発など、地域が持続的に発展する仕組みづくりに余念がない。

 

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越中五箇山筑子唄保存会
事務局長 岩崎喜平 氏

 

プロフィール
昭和25年生。
小学3年生からこきりこ節の唄い手。
日大建築学部を卒業後、帰郷。
「五箇山豆腐」のとうふ工房喜平商店の3代目でもある。

 

 富山民謡「こきりこ(筑子)」は田楽に由来する、日本で一番古い民謡といわれている。
元々は短く切った2本の竹の木を交互に叩いて音を出す楽器の名称で、室町時代に描かれた「七十一番職人歌合」には放下師が楽器のこきりこを鳴らす姿が描かれている。
こきりこ唄は一時途絶えた。だが、詩人の西條八十の五箇山来訪がきっかけとなり、地元の郷土史研究家が唄を覚えていたお婆さんを見つけ、復興がかなう。昭和44年、中学の音楽教材に取り上げられ、48年には国の選択無形民俗文化財に選定された。こきりこをいまに引き継ぐ地元の平高校郷土芸能部は、平成26年、全国高等学校総合文化祭伝承芸能部門で最優勝賞を受賞。彼らを指導している越中五箇山筑子唄保存会の岩崎喜平事務局長は「昔、農山村で普通に行われていたように、唄や踊りを通して地域の大人が地域の子どもを育てていく。それが伝承していくということ」という。子ども達を見る目も楽しそうだ。

 

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越中五箇山麦屋節保存会
会長 辻 四郎 氏

 

プロフィール
昭和20年生。
中学卒業後、京都の楽器製作所で修業。
28歳のとき帰郷し、辻四郎ギター工房を五箇山ではじめる。
保存会の9代目会長。

 

 富山民謡「麦屋節」には、平安末期、倶利伽羅峠で木曽義仲軍に敗れ五箇山の山中に逃れた平家の残党が、のちに往時をしのんでつくったという伝説がある。歌詞にも「波の屋島をとく逃れ来て」「烏帽子狩衣打ち捨てて」など、平家の落人の過日の栄華から一転、山中で過ごすこととなった我が身の悲哀が格調高く詠われている。踊りの衣装も紋付き袴に白たすき、腰に刀、そして手に笠を持つという武士と百姓の混在した姿である。麦屋節は昭和27年には無形文化財に選定された。
越中五箇山麦屋節保存会の辻四郎会長は地元の平小・中・高校で麦屋唄の指導を行っている。平高校は全国高等学校総合文化祭郷土芸能部門において、入賞の常連校だ。辻会長はまた国内で知る人ぞ知るギターの製作者で、その腕を見込んだ全国の名演奏家やコレクターから直接、注文や修理の依頼がくる。深い山間の村に高い技術を持つ人がいることが、何やら麦屋節の格調の高さと重なってみえる。

 

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こきりこ民芸
ささら製作者 大瀬 輝夫 氏

 

プロフィール
昭和27年生。
高校生のとき、母親と共にささら製作をはじめる。
高卒後は県外に就職したが、その後帰郷し、ささらづくりを再開した。
(ささらは「喜茶和ででれこでん」で体験可)

 

 富山県五箇山地方の民謡「こきりこ」のなかに放下僧のささら踊りがある。ささらとは、短冊形の薄板を編んだ古代楽器で、「鳥獣戯画(平安末期―鎌倉初期)」にはすでにささらを持って田楽を踊る蛙が描かれている。ささらの板の数は108枚。両端を持って半円にかまえ、板を波立たせて音を出す。その音で108の煩悩を祓う。踊りながらささらを鳴らし「天を祓い、地を祓い、現世を祓う」ともいう。だが、古くは108枚と決まっていたわけではないらしい。「ただ、古代の楽器は9の倍数が多い。
108は、浄土真宗の信仰篤いこの土地ならではの数かも」と、国内唯一のささら製作者である大瀬輝夫さんはいう。ささらは元々踊り手だけが持っていた楽器だった。それを誰もが手に入る楽器にしたのが、大野さんとお母さんである。大野さんのこだわりは2つだけ。「板はヒノキを使うこと。108枚にすること」。あとは試行錯誤で改良してきた。この柔軟さが、幅広い人に親しまれる所以だろう。

 

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上平観光開発株式会社

(*)5月~11月白山国立公園桂湖にて実施。
(**)1月~3月タカンボースキー場で実施。
すべて要事前予約。
五箇山豆腐づくり、かんじきトレッキングは団体(10名以上)から。
詳しくはTEL 0763-67-3766まで。

  

総務部長 羽馬 喜佐雄 氏
プロフィール
昭和25年生。県立高校の事務職を勤めた後、現職に。五箇山自然文化研究会会員。

主任 相田 慶一 氏
プロフィール
昭和53年生。茨城県出身。
南砺市が新住民を全国から公募した「世界遺産に住まんまいプロジェクト」で、応募のあった54組の中から選ばれた。いまではすっかり相倉の一員。

 

 五箇山には自然と触れ合う体験メニューが満載だ。まずは3kmに渡る桂湖でのカヌー体験(*)。水面下8mさえ見える透明度に、波ひとつない静かな湖面。そこに青い空や周囲の緑深い山々が映り、まるで鏡に映したような二重の風景が広がる。その中をカヌーでゆっくり進めば、静寂さがあたりを包み、心がじんわりとほぐれていくよう。ここでのカヌー体験は、親子やカップルの絆を深めることにも最適と人気が高い。ライフジャケットの着用はもちろん、事前にスタッフの指導があるので、初心者でもOKだ。
釣り体験(*)では釣り竿は貸出するものの、餌となるバッタなどの昆虫は参加者が捕まえる。釣れる魚はイワナやニジマスなど。童心に戻って、山の中ならではの釣りが楽しめる。
通常の豆腐より堅い「五箇山豆腐」づくり(*)も人気体験のひとつ。豆腐づくりには10工程ある。途中、豆乳のとき、あったかいおぼろ豆腐のとき、できあがった堅豆腐のときと、それぞれ3回味見ができる。小学生から会社の研修にまで活用される体験教室である。
かんじきトレッキング(**)は、雪深い五箇山ならではのもの。胸の高さまである雪の上を、かんじきをはいて1列になって歩く。先頭の者は周囲の状況を見て、何もない雪原の雪をかき分け、後から来る者のために道を開く。「このトレッキングは、冬の五箇山の生活体験をするには一番いい」。そういうのは、羽馬喜佐雄総務部長。地元で生まれ育ち、山や植物のこと、かんじきやワラ靴の編み方も知る、生活の知恵が豊富な人であり、ヒマラヤ登山の経験もあるベテランだ。一緒に働く相田慶一主任は「昔から田舎暮らしがしたかった」と、平成24年に一家で相倉に移り住んできた。「冬の雪は大変だけど、ここは人と人のつながりが深い。だから子どもを安心して預けられる」。ちょうど冬休み中の相田主任のお子さんが社内にいた。地域の皆で子どもを育てるという姿勢がごく自然な形でそこにあった。

 

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美容室コッコロ
代表 柴田 友和 氏

 

プロフィール
昭和51年生。富山市出身。
建築関係の仕事に就いた後、カッコイイ美容師に出会い、
美容師になることを決意。
店をオープンして3年。

 

 そこには子ども達の写真やかわいいイラスト、コルクでつくった人形や手作り雑貨などが飾られ、アクリル絵の具、筆までもおいてある。まるで幼稚園の遊戯室のような、雑貨店&ギャラリーのような・・・実はここ、美容室なのである。そのほとんどが代表の柴田友和さんの手によるもの。それもイラストやコルク人形づくりはまるっきりの独学だ。当初はお子さんのお客様の似顔絵や、カットが終わった際の写真をプレゼントしていた。それが喜ばれた。そのうちお客様から大量のコルクをもらい、発色のいいアクリル絵の具というものがあると教えてもらい・・・「いい感じの流木を見つけた」といって持ってきてくれる方もいた。それでさらに制作欲がかきたてられた。「お客様が僕の中の才能を引き出してくれた」と柴田さん。「美容師はお客様をきれいにして当たり前。それ以上に周りの人を笑顔にするのが僕の仕事の基本」。しかし、自身は「普通の美容師」だと謙遜する。

 

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合名会社若駒酒造場

専務取締役 清都 英雄 氏

 

プロフィール
昭和45年生。
若駒酒造場の6代目。
県外の大学を卒業後、そのまま当地の酒造メーカーに就職。
28歳のとき帰郷し、家業を継いだ。

 

 若駒酒造場は井波地域唯一の酒造所だ。創業は明治22年。初代は高岡の酒造所から井波にきた。井波には庄川上流の伏流水が豊富にあり、八日町通りには廃業した醤油の醸造所があり、酒造りに適した環境があったからだ。奥の土蔵はその醤油醸造所時代のもので、おそらく江戸時代のものではないかという。店舗の先にはいまも馬の手綱を結わえる鉄輪が残っており、往時をしのばせる。
同社の酒「若駒」は酸の効いた辛口である。酸が効くとは酸っぱいという意味ではなく、すっきりして味わい深く、飲み口がいいことをいうらしい。「いつも杜氏と試行錯誤しながら酒づくりをしている」と、清都専務。米は井波産か城端産にこだわり、主力の酒づくりはもとより新酒の開発にも力をそそぐ。そのなかのひとつ「」は、富山県で唯一椿の花酵母を使った酒だ。椿は隣村の井口産。つまり、水も米も麹もすべて地元産なのである。南砺の恵みを飲み、南砺に酔う酒といえる。

 

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木雕り西村
井波木彫刻士 西村 宣繁 氏

 

プロフィール
昭和47年生。石川県出身。
高卒後、井波の木彫刻師に弟子入り。
9年間そこで修業した後独立し、
八日町通りに店兼工房をかまえた。

 

 井波彫刻は、瑞泉寺の再建に腕をふるった京都の彫刻師がその技を井波の大工達に伝えたことにはじまる。クスノキやケヤキ、桐といった上質な天然木を使用し、欄間や獅子頭、天神様などを約200種類のノミを駆使して彫る。
西村宣繁さんは主にクスノキで彫る。店に一歩入るとクスノキの芳しい香りがぷぅんと漂う。「木彫刻で一番難しいのは装飾よりも、四角い木の立方体からできあがりを想像して、幾層にも分けて掘り起こすこと」だと西村さん。西村さんが他の彫刻師と一線を画すのは、マンガのオリジナルキャラクターの彫刻だ。
子どもの頃からマンガが好きだった。とはいえ、粘土などでつくるフィギュアと違い、木片から下書きなしで削っていくため、やり直しがきかない。かなり高度な技が必要なのである。当然、西村さんのキャラクター彫刻はマニアをうならせるほどの出来映えだ。「でも、いつもこれでいいのか迷いながら制作している」という。迷いあればこそ、である。

 

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そば処 茶ぼーず
店主 木村 氏

 

プロフィール
昭和29年生。
土木関係から立ち食いそば屋開業と180度の転換。
2010年に現在の店をオープン。
大晦日の「手打ちの年越しそば」が人気。

 

 細い路地の先に趣のある旧料亭を改装した「そば処 茶ぼーず」がある。そば粉は井波産。使用する野菜もほとんどが店主の木下美一さんの畑で採れたもの。地産地消にこだわる店主が打つそばと、薄口なのでそのまま飲めるつゆは「うまい」と町内でも評判だ。
木下店主は当初、そば粉の栽培者であって、そば職人ではなかった。そのそば粉を食べるため、趣味でそばを打つようになった。それが高じて店を持つまでになった。なので、そばづくりはすべて独学だ。その代わり、人一倍練習を重ねた。「いまも毎日が練習。わずか1滴の水や手の温度差でもそばのできが違う。そこがおもしろい」という。店内からは厨房が、厨房からは店内が見える。気が抜けない代わりに、客の表情がわかる。「そうやってお客様を見、お客様の口に聞きながら店をやってきた」「人に好かれないと店はできない。そばの側面は角だけど、人間は丸でなきゃ」。隣で一緒に働く奥様が笑顔でうなずく。

 

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井波の文化資源フォーラム
代表 江田 氏
副代表 長谷川 総一郎 氏・廣瀬 和夫 氏
事務局 沼口 氏

 

プロフィール
2010年に設立。
メンバーは工芸や郷土史にたずさわる人や学芸員、一般市民など11人。

 

 「消えていくものを復活させたい」と、井波の文化資源フォーラムに集まったさまざまなメンバー達。共通するのは、「歴史好き」。
メンバーの活動は、旧家の蔵に眠っていた所蔵品の来歴を調べ、文化的価値を探り、あるいは古刹の柱に墨書きされた名を読み解き、人物をつきとめ、まちの歴史に照らし合わせるなど多岐にわたる。たとえば、明治から昭和にかけて、「扶桑館」という日本一のの生産量を誇った製造場が井波にあった。扶桑館を営んでいた藤沢五三郎氏は、当時の全国長者番付にも載ったほどの大金持ちだった。
この五三郎氏は資料によっては「五作」と書かれているものもあるらしく、どちらの名前が本当なのかメンバー内で議論となる。そのときのメンバー達の顔が嬉々として輝き、まるで少年のようなのである。
メンバーは、年に1、2回、地元の公民館の要望でボランティアでまち歩きガイドも行っている。井波を深く知りたい人はぜひ!

 

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匠雲堂
オーナー 岡田 榮吉 氏

 

プロフィール
昭和22年生。
8年間材木店に勤めた後、40年前に同店を開業。
全国の彫刻師だけでなく、
美大・芸大や工芸学校など幅広い顧客を持つ。

 

 実は彫刻刀の専門店は全国に5軒ほど。日本海側では当店を含め、わずか2軒。そのため、全国はもとより台湾からも注文が来る。もともと井波彫刻師のためにオープンした店だが、いまでは井波彫刻では使わない刃も置いている。その数、200種類以上。店内はさながら木彫道具博物館だ。「寺社彫刻で鍛えられた精緻な井波彫刻をアピールするのは彫刻刀やノミなどの道具。その道具の多種多様さを見てほしい」と、オーナーの岡田榮吉さん。同店は砥ぎでも一流の彫刻師レベルである。「来る者拒まずでお客様の要望に応じてやっていたら、いつの間にか技術も磨かれた」と岡田オーナーは謙遜する。独自で開発した刃や砥ぎのコツなど、求められれば惜しげもなく教えることも。「だって情報の独り占めはつまらない。共有したほうが豊かになるし、それが信頼になり顧客開拓にもなる」「自分だけだと肩に力が入って前が見えなくなるしね」。言葉にもなめらかな切れ味があるようだ。

 

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真宗大谷派 梅渓山妙蓮寺
竹部 俊樹 氏

 

プロフィール
昭和57年生。
浄土真宗大谷派の僧侶。
仏教系の大学を卒業後、1年間の仏教の専修学校を経て実家の寺に戻る。
若院とは寺の後継ぎのこと。

 

 井波別院瑞泉寺に関係の深い3箇寺のひとつに、「めいれっさん」と呼ばれる妙蓮寺がある。開創は江戸初期だが、さらにその先のご先祖をたどると1390年に瑞泉寺を開基した綽如上人に随行していた僧に行き当たる。竹部姓から推し量ると京都下賀茂の出身であるらしい。若院である竹部俊樹さんは妙蓮寺17代目にあたる。自寺でのお勤め以外にも瑞泉寺の列座御堂衆や太子伝会の際の絵解きを務めるほか、他寺で法話をすることも。2013年からは仏教青年会の有志とともに「坊主バー」も行っており、仏教の新しい流れをつくる若手僧侶の1人だ。竹部さんの話はわかりやすい。「そもそも仏教って生活の中に教えがある。たとえば、嫌な人であっても上司や同僚だったら一緒に仕事をしなきゃいけない。仏教ではそんなとき、まず相手を尊敬してみようと教えています。そしたら相手が意外といいヤツだと気づいたりするんです」。人と人との間の現場の教え。それが仏教なのだそうだ。

 

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井口琇月彫刻処
二代目 井口 琇月〈悟志〉氏

 

プロフィール
昭和40年生。
高卒後、福光の彫刻士に弟子入り。
その後、実家に戻り父の後を継いだ。
伝統工芸士。一級井波木彫刻士。

 

 240年以上の歴史を誇る井波彫刻は、富山県が誇る伝統工芸のひとつ。欄間に代表される井波彫刻は精緻にして華麗。職人技が光る木の芸術だ。そんな井波彫刻が新しい取り組みをはじめた。きっかけは「若い消防団員がいなかったから」と、井波彫刻伝統工芸士にして地元の消防団員である井口琇月さんは笑う。
金沢に昔の火消しのようにを持った加賀人形が、縁起物として古くからあった。これを井波彫刻でつくり、消防関係の機関紙でアピールすれば販路開拓につながる。「つまり、消防団員になったらもうかるよって、若い彫刻士を勧誘したかったわけ」と、井口さん。自身は、1本の木から「籠の中の鶏」を彫りぬいた名工の2代目。日展入選8回を果たすほか、観光列車「べるもんた」の車内彫刻レリーフ「散居村」も手がけるなど、井波彫刻を代表する実力派の一人だ。
さて、加賀人形はその後注文につながったが、消防団員が増えたという話はまだ聞かない。

 

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水口青玉堂
店主 水口 秀治 氏

 

プロフィール
昭和30年生。
東京の大学を卒業後、3年間会社勤めを経験。
その後実家に戻り、父に弟子入り。
のち、父の跡を継ぎ5代目店主となる。

 

 「南京袋を背負ってよく小矢部川を歩くよ」と、5代目現店主の水口秀治さんは笑う。水口青玉堂は砡の専門店だ。砡は落ち着いた光沢と自然石が見せる美しい色合いが特徴で、全国でも福光町の中心を流れる小矢部川のみに産出する石である。南京袋は原石採集のためのもの。店には砡の盃や装飾品、数珠などが並ぶ。店は明治13年の創業。当初は、福井から瑪瑙職人を呼んで製作していたが、2代目以降は材料となる原石採集から磨き、削り、加工まですべてを店主以下、自店の職人が手作業で行う。現店主も父である4代目に弟子入りした。修業中の月給は月2万円。石を削る作業中によく手を切り、血が流れても手当は絆創膏を貼るだけ。傷口に入り込んだ石粉は今も取れない。初めてつくった砡盃は「傾いていた」という。それでも父はそれを神棚にあげてくれた。以来、「砡は石ごとに違う表情があり、個々の良さを引き出すのが楽しくて、飽きることがない」そうだ。

 

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有限会社石黒種麹店
社長 石黒 八郎 氏

 

プロフィール
高校、大学、5年間の会社勤めまでを東京で過ごす。
次男だったが、
商売に向いていると言われ、跡取りに。
生年は「内緒」とのこと。

 

 石黒種麹店は北陸唯一の種麹店だ。創業は明治28年。種麹のつくり方は一子相伝。麹にも米にもこだわりがある。生産数が希少な大豆をつかった無添加味噌、幻といわれる糯米を用いた甘酒など、店には逸品が揃う。「富山から安心安全な発酵食品を発信する」ため、社長の石黒八郎さんは麹の製造指導や講演にも出かける。石黒社長は27歳でこの道に入った。職人だった父は麹室の温度は体で測れと、一切温度計を使わせなかった。当初は非科学的だと反発したが、いつの間にか自身が微妙な温度変化を感じる体になっていた。それを「いずれは自分の跡を継ぐ息子にも教えたい」と言う。もうひとつ、忘れられないことがある。
あるかぶら寿し職人から「麹づくりに命をかけろ」と叱られたことだ。そのくやしさがさらなる品質向上を生んだ。「手を抜くと商品に表れる。手をかけると商品が答えてくれる」。客が「石黒の麹を使っている」と言ってくれるのが何よりもうれしいそうだ。

 

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株式会社杓子屋
店主 竹本 明弘 氏

 

プロフィール
昭和34年生。
小さい頃から店を手伝ってきたので、
当たり前のように店を継いだそうだが、
一時は県外で旅行業に携わっていた時期も。

 

 福光名物のひとつに「どじょうのかば焼き」がある。古くからどじょうは酒のつまみや卵とじなどとして食されてきた。福光が生んだ政治家、松村謙三(1883年~1971年)の著書にも「子どもの頃、どじょうのかば焼きを食べてうまかった」との記述がある。杓子屋はそのどじょうのかば焼き店の南砺市一の老舗である。醤油をベースにした秘伝のタレをつけて炭火で焼いた同店のどじょうは、肉厚でぷりっとしており、臭みがない。焼くのは1日500本。大手の引き合いや一見さんお断りを頑固に貫いている。品質を守るためだ。原材料のどじょうも国産にこだわり、宇佐神宮つながりの大分県から取り寄せている。
店主の竹本明弘さんは小学生の頃から店の手伝いをしてきた。23歳で父の後を継ぎ、以来、苦しいことがあってもこの仕事を辞めようとは思わなかった。その理由を「どこにもない味を自分でつくり出すことができる。職人魂が発揮できる」からだと語ってくれた。

 

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屋号やりのさき 湯浅酒店
店長 湯浅 嘉將 氏

 

プロフィール
昭和41年生。
金沢の酒蔵で3年間、蔵人とともに寝泊まりし、
酒の造り方を学ぶ。
25歳で店を継ぎ、4代目となる。

 

 店の屋号「やりのさき」は「鎗乃先」と書く。戦国時代、この地を通った佐々成政がのどの渇きを覚え、鎗の先で地面と突くとそこから水が出たという。のちに店長の湯浅嘉將さんのご先祖がこの水と福光産の米を用いて酒を造った。その酒の名を佐々成政にちなみ「成政」と名づけた。成政はすっきりした辛口の酒だ。色は黄味がかっている。そこに「酒のうまみが凝縮されている」という。同店はその成政を販売するために、明治時代に創業された。当時は一升瓶などなく、一合枡で量り売りしていたのだそうだ。
湯浅店長は、他の蔵で修業した経験に加え、豊富な酒知識を持つ。しかし、それを押しつけることはない。何よりも客との会話を大切にしているからだ。そこから客の好みを察し、その人に適した酒を勧める。何を飲んだらいいかと聞く人には「まず純米酒を勧める。酒蔵の力と地元の味が一番よくわかるから」。だから自分が勧めた酒が「うまかったよ」と言われると「酒屋冥利につきる」そうだ。

 

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安谷呉服店
安谷 行雄 氏

 

プロフィール
昭和16年生。
福光で生まれ育ったが、14歳のとき、東京の学校へ転校。
以来、東京で過ごすが、
福光の女性との結婚を機に福光に戻る。

 

 そんなに遠い昔ではない。福光町で大麻の織物がつくられていた。耐久性があり、涼しく風通しのいい織物で、法被や甚平、畳の縁、蚊帳などに用いられた。さらに昭和天皇崩御の際、棺を担いだ皇宮護衛官の束帯がこの福光産の麻織物だった。しかし、今は大麻の皮から糸を紡ぐ人が絶え、すでにつくられていない。安谷呉服店にはその貴重な一反がある。
「福光近在で多くの農家の婦人が自宅の土間でその麻織物を織っていたものだ」と、2代目店主の安谷行雄さんは言う。「生産者の気持ちになって本物を売る」が持論。丁稚奉公の重要性を説きながらも自身にはその経験がない。27歳のとき、結婚を機に妻の実家である同店に入ったからだ。それまで呉服のことは何もわからなかったが、本物を見極める客に鍛えられた。近年は呉服の需要も見る目を持つ客も減ってきた。だが、だからこそ「の良いものを売る」という哲学を持ち、それを店のキャッチフレーズにもしている。

 

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有限会社トヤマ運動具製作所
水内 康晴 氏

 

プロフィール
昭和55年生。
地元の高校から東京の大学に進学。
卒業後は地元に戻り就職したが、今春、家業である同社に転職。
事前に予約すれば見学も可。

 

 福光の木製野球バット生産量は、全国シエアの約4割を占める。福光でバットの生産がはじまったのは大正時代。現在、福光でバットを生産しているのは5社。トヤマ運動具製作所はそのうちの1社で、昭和45年の創業だ。大手の有名スポーツメーカーとも取引がある。同社のバットはそこからプロ野球選手の手に渡る。「テレビでうちのバットが使われているのを見るとうれしくなる」と、3代目にあたる水内康晴さんは言う。
バットは角材の状態で1年以上寝かせて乾燥させ、水分を飛ばす。乾燥しすぎると割れてしまうので「バットづくりで一番怖いのは乾燥」だという。その後、1本1本重量を量り、木目を見極め、削り、磨き、色を塗る。
実は水内さんは今春、この仕事に就いたばかり。だが、早くも福光産バットへの理解を広める活動にも取り組んでいる。今年1歳になる息子には「僕の跡を継ぐ前に、野球の好きな子になってほしい」と、目を細めた。

 

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南砺バットミュージアム
館長 嶋 信一 氏

 

プロフィール
昭和24年生。
小・中と野球をし、社会人の後は16年間監督を務めた。
現在は南砺市野球協会長、
富山県軟式野球連盟副会長である。

 

 現在、プロの野球選手が使用しているバットの4割は福光産であり、長嶋茂雄氏が国民栄誉賞に輝いたときのバットも福光産だ。それだけ愛用される理由を「福光には0.1mmの狂いも見逃さない職人がいるから」と、南砺バットミュージアムの嶋信一館長はいう。
同館は平成24年2月に開館した。老舗のバット製作所が廃業したとき、嶋館長はそこが所蔵していたバット1300本を引き取り、1年半かけてホコリやカビをとり、1本ずつ来歴を調べた。同館に展示しているのはそのうちの600本。王貞治氏、落合博満氏、原辰徳氏、清原和博氏など、往年のプロ野球選手が愛用したバットや、製造注文の書き込みをしたバットが並ぶ。「1本1本のバットにドラマがある。そこにはボールや手袋の痕、滑り止め痕があり、誰とどんな対戦をしたバットなのか想像するのが楽しい」という嶋館長。いま一番の楽しみは「幼い孫娘が大きくなったら一緒にキャッチボールをすること」だそうだ。

 

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城端曳山会館
館長 山下 茂樹 氏

 






 

 城端曳山(国重要無形民俗文化財)は約300年前に招福除災を願う町民達の手によってはじまった。曳山は京文化、付随する庵屋台は江戸文化の影響を受け、当時加賀藩の厚遇を受けていた腕のいい大工や塗師達がその両文化を融合させ、城端ならではの絢爛な山車をつくりあげた。町内6地域にそれぞれ山車があり、神像は恵比須(西上町)、堯王(西下町)、寿老(東上町)、大黒天(東下町)、布袋(出丸町)、関羽(大工町)だ。
「どの神様も八頭身でイケメン揃い」と、山下館長は自慢する。館長になったのは昨年4月。だが、曳山とのつきあいは半世紀を超える。小学生の頃は曳山の上部に乗り、夜の巡行を彩る行燈が燃えそうになると、下に投げ落とす役をした。現在は大黒天を背負って山宿から曳山に移す役を担う。大黒天は、山下館長の地元東下町の神像だ。重さ100kg。周囲に支えられながら這うようにして背負う。神の存在の重さが「腰にくる」らしい。

 

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じょうはな庵
松平 保夫 氏

 






 

 じょうはな庵の築造は明治38年。代表的な町家建築で、通り側からミセ、ブツマ、ザシキと続き、その先に中庭がある。雪の重さに耐えられるよう登り梁があるのも特徴のひとつだ。昔は隣家が飯方(五箇山の農民を対象とした高利貸し)をしており、ここはその分家。長らく空き家だったが「町並みも文化であり、昔ながらの町家は曳山祭りに欠かせない祭りの設えのひとつ」と考えた松平さん達有志3人が持ち主と交渉して借り受け、「じょうはな庵」と名づけた。曳山祭りの際はミセの戸を全開にし、庵唄所望も行った。
日頃、松平さんはじょうはな庵にいる。そこで自分の足で探し歩いた「城端百景」を、五箇山和紙を用いて版画にしている。もともとは趣味で版画の年賀状を出していたことがきっかけだ。当初は一景のつもりが、好評のため、いつの間にか百景になった。素朴で味わい深い版画は、城端の町そのものの趣とともに松平さんの人柄とも重なる。

 

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城端庵唄保存会
会長 長谷川 一司 氏

 






 

 城端曳山祭りの際に唄われる庵唄のルーツは江戸端唄。そのほとんどが恋の唄だ。江戸時代、城端絹商人が当時江戸で流行っていた端唄を故郷に持ち帰った。江戸の粋に城端の鄙びた趣が加わり、独特の典雅さを持つ城端庵唄となった。祭りではその「庵唄所望」ができる。所望した家に庵屋台が横づけし、庵唄を披露する。家人は自宅にいながら料亭で遊ぶ気分を楽しめるのである。
保存会ではそんな庵唄を次世代に継承しようと、2~3年かけてCDを制作した。
「僕が20歳で三味線をはじめたとき、『遊び人になるよ』と言われ、やっぱりなった」と長谷川会長。庵唄を唄う若連中は毎年、東京から高名な長唄の師匠を招いて稽古をつけてもらう。その師匠と知り合ったのも金沢の料亭で遊んでいたことが縁。「城端曳山は神様の遊びに庵唄というお茶屋遊びを取り入れたもの。神様を引き連れて(庵屋台は曳山の前を巡行する)のお茶屋遊びは楽しい」と笑う。

 

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(有)田村萬盛堂
店主 田村 悟敏 氏

 






 

 菓子蔵処「田村萬盛堂」の創業は寛政年間(1789~1801年)である。当時、善徳寺の山門前では博打が盛んで、そこへあんもろ餅を売りに行っていたという。後に博打を打つのは盆の8月15日のみとされた。現在では博打を打つ人はいないが、盆にあんころ餅を食べるという風習だけは残った。そのきっかけは同店である。同店にはまた、江戸末期から昭和にかけての和菓子の木型を収蔵する富山県唯一の木型館がある。落雁用、干菓子用、練切り餡用など1200点のうち約300点が展示され、木型職人の精巧な技と華麗な菓子文化を垣間見ることができる。
「僕は仕事じゃなくて道楽しているだけ」と8代目にあたる現店主はにこやかに笑う。だが、自身の石好きが高じて製作した銘菓「木の葉石」は内閣総理大臣賞を受賞。微細な米粉が開発されてすぐに、米粉ロールケーキ製造(現:なんと!ん米ロール)に取り掛かるなど、田村店主の柔軟な発想と行動力には定評がある。それが、おいしい味となるのだ。

 

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