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南砺男子

各エリアごとに南砺男子を紹介しています。


■南砺男子とは。。。

南砺の「魅力発信」プロジェクト。
南砺で活躍する男性らの「格好(かっけ)ぇ~」を発信する。
自然、歴史、文化、産業・・・様々な魅力のあふれる南砺。
それらに携わる「南砺ならでは」な人びと(男性)を、「格好ぇ~」をキーワードに集め、発信する。

■南砺男子の理念

豊かな自然に包まれ、薫り高き歴史が息づく南砺。
この地で育まれ、今も受継がれる独自の文化や人びとの暮らし。
南砺男子を通じて、「そのまま」の南砺は、宝物であり、誇りであると知る。
これらの価値を市民自らが認識し、市民全体で共有する・・・それが、「南砺男子」。
 

■南砺男子の対象

南砺の伝統技術を継承する男性
南砺でこだわりのモノづくりをする男性
南砺の伝統文化を保存、伝承する男性
南砺の自然、風土、風習を保護する男性
南砺の活性化に取り組む男性
南砺から世界へ発信する男性
そのほかにも、南砺ならではの取組、活動、想い・・・など幅広く対象に。
 
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株式会社合掌の物語りん
代表取締役社長 荒井 崇浩 氏

プロフィール
昭和53年生。
高校創業後、県外の大学、大学院へ進学。
東京の建設コンサルタント会社に就職後、
2005年に故郷の菅沼集落に戻る。

 上平地区にある菅沼集落は、平地区にある相倉集落とともに富山県が誇る世界遺産だ。
菅沼集落の合掌造り家屋は9戸。すぐ身近に山からの落雪を防ぐ「雪持林」と、屋根を葺く茅が生い茂る「茅場」がある。家屋だけでなく、これら生活に欠かせないものすべてが、日本の原風景ともいうべき景観を形づくっている。荒井崇浩さんはそこで「土産・お休み処あらい」の店長を務めながら「株式会社合掌の物語りん」を立ち上げた。そこで合掌造りの屋根材となる茅の保全をはじめ、地域づくりに取り組んでいる。大学・大学院時代、地域づくり畑を歩んできた。東京で都市計画系の会社に努めた後、故郷の菅沼集落に戻ったとき、地域づくり熱に再度火がついた。しかし、当初は周囲から反発され、ようやく長老から「好きにやっていいよ」とお墨付きをもらったのは帰省して5、6年後のこと。いまも茅を活用した商品開発など、地域が持続的に発展する仕組みづくりに余念がない。

 

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越中五箇山筑子唄保存会
事務局長 岩崎喜平 氏

プロフィール
昭和25年生。
小学3年生からこきりこ節の唄い手。
日大建築学部を卒業後、帰郷。
「五箇山豆腐」のとうふ工房喜平商店の3代目でもある。

 富山民謡「こきりこ(筑子)」は田楽に由来する、日本で一番古い民謡といわれている。
元々は短く切った2本の竹の木を交互に叩いて音を出す楽器の名称で、室町時代に描かれた「七十一番職人歌合」には放下師が楽器のこきりこを鳴らす姿が描かれている。
こきりこ唄は一時途絶えた。だが、詩人の西條八十の五箇山来訪がきっかけとなり、地元の郷土史研究家が唄を覚えていたお婆さんを見つけ、復興がかなう。昭和44年、中学の音楽教材に取り上げられ、48年には国の選択無形民俗文化財に選定された。こきりこをいまに引き継ぐ地元の平高校郷土芸能部は、平成26年、全国高等学校総合文化祭伝承芸能部門で最優勝賞を受賞。彼らを指導している越中五箇山筑子唄保存会の岩崎喜平事務局長は「昔、農山村で普通に行われていたように、唄や踊りを通して地域の大人が地域の子どもを育てていく。それが伝承していくということ」という。子ども達を見る目も楽しそうだ。

 

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越中五箇山麦屋節保存会
会長 辻 四郎 氏

プロフィール
昭和20年生。
中学卒業後、京都の楽器製作所で修業。
28歳のとき帰郷し、辻四郎ギター工房を五箇山ではじめる。
保存会の9代目会長。

 富山民謡「麦屋節」には、平安末期、倶利伽羅峠で木曽義仲軍に敗れ五箇山の山中に逃れた平家の残党が、のちに往時をしのんでつくったという伝説がある。歌詞にも「波の屋島をとく逃れ来て」「烏帽子狩衣打ち捨てて」など、平家の落人の過日の栄華から一転、山中で過ごすこととなった我が身の悲哀が格調高く詠われている。踊りの衣装も紋付き袴に白たすき、腰に刀、そして手に笠を持つという武士と百姓の混在した姿である。麦屋節は昭和27年には無形文化財に選定された。
越中五箇山麦屋節保存会の辻四郎会長は地元の平小・中・高校で麦屋唄の指導を行っている。平高校は全国高等学校総合文化祭郷土芸能部門において、入賞の常連校だ。辻会長はまた国内で知る人ぞ知るギターの製作者で、その腕を見込んだ全国の名演奏家やコレクターから直接、注文や修理の依頼がくる。深い山間の村に高い技術を持つ人がいることが、何やら麦屋節の格調の高さと重なってみえる。

 

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こきりこ民芸
ささら製作者 大瀬 輝夫 氏

プロフィール
昭和27年生。
高校生のとき、母親と共にささら製作をはじめる。
高卒後は県外に就職したが、その後帰郷し、ささらづくりを再開した。
(ささらは「喜茶和ででれこでん」で体験可)
 

 富山県五箇山地方の民謡「こきりこ」のなかに放下僧のささら踊りがある。ささらとは、短冊形の薄板を編んだ古代楽器で、「鳥獣戯画(平安末期―鎌倉初期)」にはすでにささらを持って田楽を踊る蛙が描かれている。ささらの板の数は108枚。両端を持って半円にかまえ、板を波立たせて音を出す。その音で108の煩悩を祓う。踊りながらささらを鳴らし「天を祓い、地を祓い、現世を祓う」ともいう。だが、古くは108枚と決まっていたわけではないらしい。「ただ、古代の楽器は9の倍数が多い。108は、浄土真宗の信仰篤いこの土地ならではの数かも」と、国内唯一のささら製作者である大瀬輝夫さんはいう。ささらは元々踊り手だけが持っていた楽器だった。それを誰もが手に入る楽器にしたのが、大野さんとお母さんである。大野さんのこだわりは2つだけ。「板はヒノキを使うこと。108枚にすること」。あとは試行錯誤で改良してきた。この柔軟さが、幅広い人に親しまれる所以だろう。

 

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上平観光開発株式会社

(*)5月~11月白山国立公園桂湖にて実施。
(**)1月~3月タカンボースキー場で実施。
すべて要事前予約。
五箇山豆腐づくり、かんじきトレッキングは団体(10名以上)から。
詳しくはTEL 0763-67-3766まで。

総務部長 羽馬 喜佐雄 氏
プロフィール
昭和25年生。県立高校の事務職を勤めた後、現職に。五箇山自然文化研究会会員。

主任 相田 慶一 氏
プロフィール
昭和53年生。茨城県出身。
南砺市が新住民を全国から公募した「世界遺産に住まんまいプロジェクト」で、応募のあった54組の中から選ばれた。いまではすっかり相倉の一員。

 五箇山には自然と触れ合う体験メニューが満載だ。まずは3kmに渡る桂湖でのカヌー体験(*)。水面下8mさえ見える透明度に、波ひとつない静かな湖面。そこに青い空や周囲の緑深い山々が映り、まるで鏡に映したような二重の風景が広がる。その中をカヌーでゆっくり進めば、静寂さがあたりを包み、心がじんわりとほぐれていくよう。ここでのカヌー体験は、親子やカップルの絆を深めることにも最適と人気が高い。ライフジャケットの着用はもちろん、事前にスタッフの指導があるので、初心者でもOKだ。
釣り体験(*)では釣り竿は貸出するものの、餌となるバッタなどの昆虫は参加者が捕まえる。釣れる魚はイワナやニジマスなど。童心に戻って、山の中ならではの釣りが楽しめる。
通常の豆腐より堅い「五箇山豆腐」づくり(*)も人気体験のひとつ。豆腐づくりには10工程ある。途中、豆乳のとき、あったかいおぼろ豆腐のとき、できあがった堅豆腐のときと、それぞれ3回味見ができる。小学生から会社の研修にまで活用される体験教室である。
かんじきトレッキング(**)は、雪深い五箇山ならではのもの。胸の高さまである雪の上を、かんじきをはいて1列になって歩く。先頭の者は周囲の状況を見て、何もない雪原の雪をかき分け、後から来る者のために道を開く。「このトレッキングは、冬の五箇山の生活体験をするには一番いい」。そういうのは、羽馬喜佐雄総務部長。地元で生まれ育ち、山や植物のこと、かんじきやワラ靴の編み方も知る、生活の知恵が豊富な人であり、ヒマラヤ登山の経験もあるベテランだ。一緒に働く相田慶一主任は「昔から田舎暮らしがしたかった」と、平成24年に一家で相倉に移り住んできた。「冬の雪は大変だけど、ここは人と人のつながりが深い。だから子どもを安心して預けられる」。ちょうど冬休み中の相田主任のお子さんが社内にいた。地域の皆で子どもを育てるという姿勢がごく自然な形でそこにあった。

 

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石本  泉 さん  
職業 五箇山和紙職人

[所属]

道の駅たいら 五箇山和紙の里  http://gokayama-washinosato.com/

[所在地]
富山県南砺市五箇山(平)地域

[略歴]
山口県出身。学生時代に南砺を訪れたことがきっかけで、卒業後、南砺へ。一般財団法人五箇山和紙の里の職員として、五箇山和紙のさらなる発展、普及拡大を目指し、様々な分野との連携を日々模索する。現在、学生時代の仲間らと立ち上げた新たな五箇山和紙のブランド「FIVE」を中心に、全国へ、世界へ、五箇山和紙の発信を行っている。

 

【インタビューファイル】                                                                          かっけ
ご紹介する南砺男子は、石本泉さん。クールな表情の奥に、熱い情熱を秘めた格好ぇ~南砺男子に、五箇山和紙のこと、南砺ならではな、こだわり等を伺いました。


◆石本さんについて聴かせて下さい
◇学生時代に訪れた五箇山で、「木(楮)から紙(和紙)が出来る」という和紙製法を知り、その面白さにとても興味関心が湧きました。その時の体験がきっかけで、和紙に関わる仕事を求めて、学校を卒業後、南砺へやってきました。

◆仕事について聴かせて下さい
◇現在、職場である五箇山和紙の里において、和紙漉き体験の指導や、手漉きや機械漉きによる製品作り、原材料である楮の処理など、ありとあらゆる作業に関わっています。

◆五箇山和紙の魅力について聴かせて下さい
◇五箇山和紙の魅力は、素材自体がとても魅力的という点です。紙として利用するイメージが強い和紙ですが、近年では、その素材の風合いや強度などの特徴を活かし、照明やタペストリー、暖簾や帽子などと、その用途は多岐に渡っています。さらに色彩についても、これまでは無かった緑、黄、ピンク、オレンジなど蛍光色のものが誕生しています。特に、この色彩豊かな和紙を加工した製品は、ヨーロッパを中心に高評価を受けていて、海外からの問い合わせも増えてきました。

◆南砺ならではな、こだわりを聴かせて下さい
◇五箇山和紙の南砺ならではな、こだわりのひとつに、地元五箇山で原材料となる楮の栽培から、製品となる和紙の生産までを一貫して行っているという点があります。この一貫生産は、産地であれば当たり前に思われがちですが、実際はそうではありません。実は、皆さんが紙漉き体験で目にする状態までに、楮を処理する工程は、非常に多岐に渡り、かつそれだけ多くの人の手が必要となる、大変手間のかかるものなのです。従って、多くの和紙の産地と呼ばれる地域では、和紙の原料は仕入れに頼らざるを得ないのが、現状なのです。
そんな中、五箇山ではまだまだ、この一貫生産を続けているわけで、是非とも「紙漉きを増やし(和紙の生産量を増やし)、楮畑を増やす(和紙の原材料の生産量を増やす)。そして、和紙に関わる人を増やす(和紙生産が産業として成り立つ)」ことが、これからも南砺で続けていく、こだわり(意義)です。

◆今後について聴かせて下さい
◇南砺、特に五箇山地域では、その昔、和紙と並んで「養蚕」と「塩硝」が主要な産業として盛んに行われていましたが、現在まで続いているのは「和紙」だけとなりました。和紙の伝統的な技術を守りながら、 江戸時代から受け継がれる古典和紙の製造を継承していかなければならないと思っています。また、和紙の生産は、とても多くの人の手が必要となります。ですから、地元の皆さんの協力は必要不可欠なのです。下処理などを担ってくれる人を維持、あるいは増やしていかなければ、和紙もその他の産業のように、いずれ途絶えてしまいます。そうならない為にも、和紙の紙としての利用促進や、その他の分野とのコラボレーションによる新たな使い方の提案など、色々な展開を探っていかなければならないと思っています。ですから、南砺市の小学生らの卒業証書を、五箇山和紙でつくるといった、地域の産業・文化を大切にするという機運の高まりは、とても嬉しいことです。今後も伝統を継承しつつ、新しい五箇山和紙の利用方法等を、南砺から発信していきたいと思います。


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谷戸  守 さん
職業  木彫工芸作家

[所属]
木彫 谷戸  
http://www.shokoren-toyama.or.jp/~toga/product05.html
(南砺市商工会利賀村事務所HP内関連ページ)

[所在地]
富山県南砺市利賀村地域

[略歴]
新潟県出身。高校を卒業後、伝統工芸井波彫刻を学ぶために単身移住。10年間師匠のもとで修行を重ね、その後独立。独立と同時期に南砺市利賀村へ移住。以来26年、利賀村にて木彫工芸を中心に製作活動を行う。昭和59年には、第16回日本美術展覧会(日展)に初出品で初入選を果たす。(日展入選19回)

【インタビューファイル】
ご紹介する南砺男子は、谷戸守さん。日本美術展覧会(日展)に19回以上入選された南砺を代表する木彫工芸作家のひとり。とても親しみ易い、にこやかな笑顔と軽妙なトークで、あっという間にその場を明るく、和やかにしてしまう格好ぇ~南砺男子に、木彫刻のこと、仕事に対するこだわり等を伺いました。


◆谷戸さんについて聴かせて下さい
◇新潟県出身。ある井波彫刻を紹介した記事を見て、井波彫刻に魅せられて、南砺へ移住しました。高校を卒業してすぐの3月3日のことでした。それから10年、井波彫刻を学ぶために師匠のもとで修行を重ねました。25歳の時に、日本美術展覧会(日展)に初入選し、28歳の時、独立し、その時に活動の拠点を南砺市利賀村へ移しました。

◆木彫刻家になるきっかけを聴かせて下さい
◇小学生、中学生の頃から図工や美術が好きで、成績も良かったです。将来は、「自分の名前を刻む仕事がしたい」といつしか考えるようになっていました。そんなある日、目にした井波彫刻の記事に心震え、早速井波を訪れ、この目で井波彫刻を見て回り、これだ!と実感しました。

◆木彫刻の仕事について聴かせて下さい
◇私がまず一番最初に取り掛かることは、資料集めやそれらに基づいて図案を制作することです。この取り組みが私にとっての「仕事」になります。出来上がった図案を基に、実際に木を彫り進める取り組みは、どちらかというと仕事というよりは、「作業」といえます。

◆谷戸さんのこだわりを聴かせて下さい
◇例えば、獅子舞の図案を制作する場合においては、現在の獅子舞の頭(いわゆる獅子頭)を参考に制作するのではなく、今は使われない、けれど古くから受け継がれてきた獅子頭を調べあげ、その獅子頭を図案に取り入れるようにしています。
また、その主役である獅子頭や登場人物だけでなく、周りを飾る風景(脇役)にも、主役同様に徹底した調査をします。「何故この場面に、この風景(脇役)が存在するのか?!」といった、主役の陰に隠れ、見落とされてしまうかもしれないほどの風景にも、膨大な資料から徹底的に調べ上げた根拠(こだわり)を込めています。なので、資料集めや、それらに基づく図案の制作が私にとっての「仕事」という理由が、そこにはあります。

◆何か面白いエピソードがあれば聴かせて下さい
◇私は、釣りがとても好きでして、近くの川で主にイワナを釣り上げてます。利賀で釣るイワナは、紫に輝く綺麗な姿をしていますよ。私にとって釣りは、「木と絵」の切り替え用のスイッチみたいなものなんです。というのも、私は木彫刻の他にも、絵を描かきます。中でも「イワナ」を図柄によく取り入れています。その絵は、主に扇子や和傘などに描くのですが、割とその人気が高く、記念品や贈答品として、注文を頂いています。以前、当時総理大臣だった小渕さんにイワナの絵を描いて渡したら、後日電話が本人から掛かってきて、「飾ってあるから見においで」って言われました(笑)


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江尻  裕 さん
職業  キコリ

[所属]
一般社団moribio(モリビオ) 森の暮らし研究所 http://moribio.com/

[所在地]
富山県南砺市利賀村地域

[略歴]
富山県富山市出身。静岡県にて公務員生活を送っていたが、テレビ番組で林業を知ったことをきっかけに、故郷富山への移住を決意。幾つかの候補地から現在の居住地である南砺市利賀村を選ぶ。林業に関しては全くの素人であったが、利賀村へ移住し16年、現在では利賀村の林業を支えるひとりとして日々活躍中。

【インタビューファイル】
ご紹介する南砺男子は、江尻裕さん。南砺(利賀村)の森林資源を活用して、過疎化する地域の課題の解決を目指し、Iターンで南砺へ移住された格好ぇ~南砺男子に、林業のこと、利賀村(南砺)に対する想い等を伺いました。


◆江尻さんについて聴かせて下さい
◇富山県富山市出身。現在は南砺市利賀村地域を拠点にキコリとして利賀村の森の中を中心に活動しています。利賀村に移住したのは1999年からで、今年で16年目。キコリの活動を通じて、森のビオトープ作り、持続可能な地域社会の構築を目指しています。

◆キコリになったきっかけについて聴かせて下さい
◇利賀村に移住する前までは、静岡県で公務員をしていました。元来、キャンプや自然が好きでしたが、ある日テレビ番組で林業の世界を知り、これだ!と思いました。そして、自然と触れ合える環境を求めて、キコリとなる(移住する)決意をしました。

◆利賀村を選んだ理由を聴かせて下さい
◇ちょうど家庭の事情などから、富山へのIターンも考えていたころです。移住先の候補地として、故郷でもある富山県を選び、さらに森のある地域として、利賀村・上平村・平村・八尾町…等々へ手紙を出しました。そこで、一番最初に返信があったのが、利賀村でした。それが、利賀村になったきっかけですね(笑)。その他に、利賀村では当時青年山村協力隊というものがあって、仕事と住まいの提供があったことも、利賀村を選ぶポイントでしたね。

◆仕事について聴かせて下さい
◇いざ移住を決めて、南砺へ来て当初は、「全くの素人からのスタートでした(笑)。地元のじぃちゃんらにイチから教わりました」
林業を実際に経験すると、枝打ちの姿がとても格好良いな、とまず実感しました。それから比較的現金収入が得られやすいとか、何かと仕事がある業界だな、と思いました。その点では助かりました。
普段の仕事は、木が曲がらないように雪起こし作業(木をロープで引き起こす)等をします。雪が多く降る利賀では、木を育てることにもコストがとても掛かると、あらためて実感しています。

◆林業について聴かせて下さい
◇当時の林業の状況は、高齢化率が高く、次の世代に担い手が居ませんでした。緑の雇用制度というもののおかげで、新規就業者は増えましたが、離職率も増えるというミスマッチが生じていました。ミスマッチの多くは、「林業に対するイメージが、実際とは違っていた」とか、「体力的に続けていけなかった」というものでしたね。
それから、林業は、情報量(発信量)がとても少ないですね。他には、子供(学生)時代のうちに林業に触れる機会が無い、そして労働環境が不安定(季節雇用が中心)という点も、今後解消しなければならない課題ですね。これらをひとつずつ解決したくて、「一般社団法人moribio 森の暮らし研究所」を立ち上げました。

◆今後について聴かせて下さい
◇建築資材などに用いられる、製材中心の活動に限界が来ています。そこで、これまでにはなかった仕組みを模索しています。その一つに、「林業で人を育てる」というものがあります。その為に現在、体験施設を整えて、受け入れを始めています。この体験施設を拠点に林業体験をしてもらい、体力面について経験したり、林業について色々と職人らと語り合う(林業せきららトーク)等、出来るだけ就業後のミスマッチを減らしたいと思っています。
それと、地域にあるものを上手に活用しながら暮らしていける仕組み作りを目指しています。例えば、薬効成分のある植物の活用などに着目しています。これは、利賀だからこその取り組みなのですが、薬効成分のあるクロモジやコブシといった樹の医薬品メーカー等へ安定供給することを目指した取り組を進めています。これは、現在10%という国産比率の改善や、海外産に依存することで生じる様々なリスク回避など、メーカー側とも合致する取り組みになっています。

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美容室コッコロ
代表 柴田 友和 氏

プロフィール
昭和51年生。富山市出身。
建築関係の仕事に就いた後、カッコイイ美容師に出会い、
美容師になることを決意。
店をオープンして3年。

 そこには子ども達の写真やかわいいイラスト、コルクでつくった人形や手作り雑貨などが飾られ、アクリル絵の具、筆までもおいてある。まるで幼稚園の遊戯室のような、雑貨店&ギャラリーのような・・・実はここ、美容室なのである。そのほとんどが代表の柴田友和さんの手によるもの。それもイラストやコルク人形づくりはまるっきりの独学だ。当初はお子さんのお客様の似顔絵や、カットが終わった際の写真をプレゼントしていた。それが喜ばれた。そのうちお客様から大量のコルクをもらい、発色のいいアクリル絵の具というものがあると教えてもらい・・・「いい感じの流木を見つけた」といって持ってきてくれる方もいた。それでさらに制作欲がかきたてられた。「お客様が僕の中の才能を引き出してくれた」と柴田さん。「美容師はお客様をきれいにして当たり前。それ以上に周りの人を笑顔にするのが僕の仕事の基本」。しかし、自身は「普通の美容師」だと謙遜する。

 

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合名会社若駒酒造場
専務取締役 清都 英雄 氏

プロフィール
昭和45年生。
若駒酒造場の6代目。
県外の大学を卒業後、そのまま当地の酒造メーカーに就職。
28歳のとき帰郷し、家業を継いだ。
 

 若駒酒造場は井波地域唯一の酒造所だ。創業は明治22年。初代は高岡の酒造所から井波にきた。井波には庄川上流の伏流水が豊富にあり、八日町通りには廃業した醤油の醸造所があり、酒造りに適した環境があったからだ。奥の土蔵はその醤油醸造所時代のもので、おそらく江戸時代のものではないかという。店舗の先にはいまも馬の手綱を結わえる鉄輪が残っており、往時をしのばせる。
同社の酒「若駒」は酸の効いた辛口である。酸が効くとは酸っぱいという意味ではなく、すっきりして味わい深く、飲み口がいいことをいうらしい。「いつも杜氏と試行錯誤しながら酒づくりをしている」と、清都専務。米は井波産か城端産にこだわり、主力の酒づくりはもとより新酒の開発にも力をそそぐ。そのなかのひとつ「」は、富山県で唯一椿の花酵母を使った酒だ。椿は隣村の井口産。つまり、水も米も麹もすべて地元産なのである。南砺の恵みを飲み、南砺に酔う酒といえる。

 

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木雕り西村
井波木彫刻士 西村 宣繁 氏 

プロフィール
昭和47年生。石川県出身。
高卒後、井波の木彫刻師に弟子入り。
9年間そこで修業した後独立し、
八日町通りに店兼工房をかまえた。

 井波彫刻は、瑞泉寺の再建に腕をふるった京都の彫刻師がその技を井波の大工達に伝えたことにはじまる。クスノキやケヤキ、桐といった上質な天然木を使用し、欄間や獅子頭、天神様などを約200種類のノミを駆使して彫る。
西村宣繁さんは主にクスノキで彫る。店に一歩入るとクスノキの芳しい香りがぷぅんと漂う。「木彫刻で一番難しいのは装飾よりも、四角い木の立方体からできあがりを想像して、幾層にも分けて掘り起こすこと」だと西村さん。西村さんが他の彫刻師と一線を画すのは、マンガのオリジナルキャラクターの彫刻だ。
子どもの頃からマンガが好きだった。とはいえ、粘土などでつくるフィギュアと違い、木片から下書きなしで削っていくため、やり直しがきかない。かなり高度な技が必要なのである。当然、西村さんのキャラクター彫刻はマニアをうならせるほどの出来映えだ。「でも、いつもこれでいいのか迷いながら制作している」という。迷いあればこそ、である。

 

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そば処 茶ぼ〜ず
店主 木村 氏 

プロフィール
昭和29年生。
土木関係から立ち食いそば屋開業と180度の転換。
2010年に現在の店をオープン。
大晦日の「手打ちの年越しそば」が人気。

 細い路地の先に趣のある旧料亭を改装した「そば処 茶ぼ〜ず」がある。そば粉は井波産。使用する野菜もほとんどが店主の木下美一さんの畑で採れたもの。地産地消にこだわる店主が打つそばと、薄口なのでそのまま飲めるつゆは「うまい」と町内でも評判だ。
木下店主は当初、そば粉の栽培者であって、そば職人ではなかった。そのそば粉を食べるため、趣味でそばを打つようになった。それが高じて店を持つまでになった。なので、そばづくりはすべて独学だ。その代わり、人一倍練習を重ねた。「いまも毎日が練習。わずか1滴の水や手の温度差でもそばのできが違う。そこがおもしろい」という。店内からは厨房が、厨房からは店内が見える。気が抜けない代わりに、客の表情がわかる。「そうやってお客様を見、お客様の口に聞きながら店をやってきた」「人に好かれないと店はできない。そばの側面は角だけど、人間は丸でなきゃ」。隣で一緒に働く奥様が笑顔でうなずく。

 

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井波の文化資源フォーラム
代表 江田 氏
副代表 長谷川 総一郎 氏・廣瀬 和夫 氏
事務局 沼口 氏

プロフィール
2010年に設立。
メンバーは工芸や郷土史にたずさわる人や学芸員、一般市民など11人。

 「消えていくものを復活させたい」と、井波の文化資源フォーラムに集まったさまざまなメンバー達。共通するのは、「歴史好き」。
メンバーの活動は、旧家の蔵に眠っていた所蔵品の来歴を調べ、文化的価値を探り、あるいは古刹の柱に墨書きされた名を読み解き、人物をつきとめ、まちの歴史に照らし合わせるなど多岐にわたる。たとえば、明治から昭和にかけて、「扶桑館」という日本一のの生産量を誇った製造場が井波にあった。扶桑館を営んでいた藤沢五三郎氏は、当時の全国長者番付にも載ったほどの大金持ちだった。
この五三郎氏は資料によっては「五作」と書かれているものもあるらしく、どちらの名前が本当なのかメンバー内で議論となる。そのときのメンバー達の顔が嬉々として輝き、まるで少年のようなのである。
メンバーは、年に1、2回、地元の公民館の要望でボランティアでまち歩きガイドも行っている。井波を深く知りたい人はぜひ!

 

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匠雲堂
オーナー 岡田 榮吉 氏 

プロフィール
昭和22年生。
8年間材木店に勤めた後、40年前に同店を開業。
全国の彫刻師だけでなく、
美大・芸大や工芸学校など幅広い顧客を持つ。

 実は彫刻刀の専門店は全国に5軒ほど。日本海側では当店を含め、わずか2軒。そのため、全国はもとより台湾からも注文が来る。もともと井波彫刻師のためにオープンした店だが、いまでは井波彫刻では使わない刃も置いている。その数、200種類以上。店内はさながら木彫道具博物館だ。「寺社彫刻で鍛えられた精緻な井波彫刻をアピールするのは彫刻刀やノミなどの道具。その道具の多種多様さを見てほしい」と、オーナーの岡田榮吉さん。同店は砥ぎでも一流の彫刻師レベルである。「来る者拒まずでお客様の要望に応じてやっていたら、いつの間にか技術も磨かれた」と岡田オーナーは謙遜する。独自で開発した刃や砥ぎのコツなど、求められれば惜しげもなく教えることも。「だって情報の独り占めはつまらない。共有したほうが豊かになるし、それが信頼になり顧客開拓にもなる」「自分だけだと肩に力が入って前が見えなくなるしね」。言葉にもなめらかな切れ味があるようだ。

 

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真宗大谷派 梅渓山妙蓮寺
竹部 俊樹 氏

プロフィール
昭和57年生。
浄土真宗大谷派の僧侶。
仏教系の大学を卒業後、1年間の仏教の専修学校を経て実家の寺に戻る。
若院とは寺の後継ぎのこと。
 

 井波別院瑞泉寺に関係の深い3箇寺のひとつに、「めいれっさん」と呼ばれる妙蓮寺がある。開創は江戸初期だが、さらにその先のご先祖をたどると1390年に瑞泉寺を開基した綽如上人に随行していた僧に行き当たる。竹部姓から推し量ると京都下賀茂の出身であるらしい。若院である竹部俊樹さんは妙蓮寺17代目にあたる。自寺でのお勤め以外にも瑞泉寺の列座御堂衆や太子伝会の際の絵解きを務めるほか、他寺で法話をすることも。2013年からは仏教青年会の有志とともに「坊主バー」も行っており、仏教の新しい流れをつくる若手僧侶の1人だ。竹部さんの話はわかりやすい。「そもそも仏教って生活の中に教えがある。たとえば、嫌な人であっても上司や同僚だったら一緒に仕事をしなきゃいけない。仏教ではそんなとき、まず相手を尊敬してみようと教えています。そしたら相手が意外といいヤツだと気づいたりするんです」。人と人との間の現場の教え。それが仏教なのだそうだ。

 

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井口琇月彫刻処
二代目 井口 琇月〈悟志〉氏

プロフィール
昭和40年生。
高卒後、福光の彫刻士に弟子入り。
その後、実家に戻り父の後を継いだ。
伝統工芸士。一級井波木彫刻士。

 240年以上の歴史を誇る井波彫刻は、富山県が誇る伝統工芸のひとつ。欄間に代表される井波彫刻は精緻にして華麗。職人技が光る木の芸術だ。そんな井波彫刻が新しい取り組みをはじめた。きっかけは「若い消防団員がいなかったから」と、井波彫刻伝統工芸士にして地元の消防団員である井口琇月さんは笑う。
金沢に昔の火消しのようにを持った加賀人形が、縁起物として古くからあった。これを井波彫刻でつくり、消防関係の機関紙でアピールすれば販路開拓につながる。「つまり、消防団員になったらもうかるよって、若い彫刻士を勧誘したかったわけ」と、井口さん。自身は、1本の木から「籠の中の鶏」を彫りぬいた名工の2代目。日展入選8回を果たすほか、観光列車「べるもんた」の車内彫刻レリーフ「散居村」も手がけるなど、井波彫刻を代表する実力派の一人だ。
さて、加賀人形はその後注文につながったが、消防団員が増えたという話はまだ聞かない。

 

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水口青玉堂
店主 水口 秀治 氏

プロフィール
昭和30年生。
東京の大学を卒業後、3年間会社勤めを経験。
その後実家に戻り、父に弟子入り。
のち、父の跡を継ぎ5代目店主となる。

 「南京袋を背負ってよく小矢部川を歩くよ」と、5代目現店主の水口秀治さんは笑う。水口青玉堂は砡の専門店だ。砡は落ち着いた光沢と自然石が見せる美しい色合いが特徴で、全国でも福光町の中心を流れる小矢部川のみに産出する石である。南京袋は原石採集のためのもの。店には砡の盃や装飾品、数珠などが並ぶ。店は明治13年の創業。当初は、福井から瑪瑙職人を呼んで製作していたが、2代目以降は材料となる原石採集から磨き、削り、加工まですべてを店主以下、自店の職人が手作業で行う。現店主も父である4代目に弟子入りした。修業中の月給は月2万円。石を削る作業中によく手を切り、血が流れても手当は絆創膏を貼るだけ。傷口に入り込んだ石粉は今も取れない。初めてつくった砡盃は「傾いていた」という。それでも父はそれを神棚にあげてくれた。以来、「砡は石ごとに違う表情があり、個々の良さを引き出すのが楽しくて、飽きることがない」そうだ。

 

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有限会社石黒種麹店
社長 石黒 八郎 氏

プロフィール
高校、大学、5年間の会社勤めまでを東京で過ごす。
次男だったが、
商売に向いていると言われ、跡取りに。
生年は「内緒」とのこと。

 石黒種麹店は北陸唯一の種麹店だ。創業は明治28年。種麹のつくり方は一子相伝。麹にも米にもこだわりがある。生産数が希少な大豆をつかった無添加味噌、幻といわれる糯米を用いた甘酒など、店には逸品が揃う。「富山から安心安全な発酵食品を発信する」ため、社長の石黒八郎さんは麹の製造指導や講演にも出かける。石黒社長は27歳でこの道に入った。職人だった父は麹室の温度は体で測れと、一切温度計を使わせなかった。当初は非科学的だと反発したが、いつの間にか自身が微妙な温度変化を感じる体になっていた。それを「いずれは自分の跡を継ぐ息子にも教えたい」と言う。もうひとつ、忘れられないことがある。あるかぶら寿し職人から「麹づくりに命をかけろ」と叱られたことだ。そのくやしさがさらなる品質向上を生んだ。「手を抜くと商品に表れる。手をかけると商品が答えてくれる」。客が「石黒の麹を使っている」と言ってくれるのが何よりもうれしいそうだ。

 

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株式会社杓子屋
店主 竹本 明弘 氏

プロフィール
昭和34年生。
小さい頃から店を手伝ってきたので、
当たり前のように店を継いだそうだが、
一時は県外で旅行業に携わっていた時期も。

 福光名物のひとつに「どじょうのかば焼き」がある。古くからどじょうは酒のつまみや卵とじなどとして食されてきた。福光が生んだ政治家、松村謙三(1883年~1971年)の著書にも「子どもの頃、どじょうのかば焼きを食べてうまかった」との記述がある。杓子屋はそのどじょうのかば焼き店の南砺市一の老舗である。醤油をベースにした秘伝のタレをつけて炭火で焼いた同店のどじょうは、肉厚でぷりっとしており、臭みがない。焼くのは1日500本。大手の引き合いや一見さんお断りを頑固に貫いている。品質を守るためだ。原材料のどじょうも国産にこだわり、宇佐神宮つながりの大分県から取り寄せている。
店主の竹本明弘さんは小学生の頃から店の手伝いをしてきた。23歳で父の後を継ぎ、以来、苦しいことがあってもこの仕事を辞めようとは思わなかった。その理由を「どこにもない味を自分でつくり出すことができる。職人魂が発揮できる」からだと語ってくれた。

 

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屋号やりのさき 湯浅酒店
店長 湯浅 嘉將 氏

プロフィール
昭和41年生。
金沢の酒蔵で3年間、蔵人とともに寝泊まりし、
酒の造り方を学ぶ。
25歳で店を継ぎ、4代目となる。

 店の屋号「やりのさき」は「鎗乃先」と書く。戦国時代、この地を通った佐々成政がのどの渇きを覚え、鎗の先で地面と突くとそこから水が出たという。のちに店長の湯浅嘉將さんのご先祖がこの水と福光産の米を用いて酒を造った。その酒の名を佐々成政にちなみ「成政」と名づけた。成政はすっきりした辛口の酒だ。色は黄味がかっている。そこに「酒のうまみが凝縮されている」という。同店はその成政を販売するために、明治時代に創業された。当時は一升瓶などなく、一合枡で量り売りしていたのだそうだ。
湯浅店長は、他の蔵で修業した経験に加え、豊富な酒知識を持つ。しかし、それを押しつけることはない。何よりも客との会話を大切にしているからだ。そこから客の好みを察し、その人に適した酒を勧める。何を飲んだらいいかと聞く人には「まず純米酒を勧める。酒蔵の力と地元の味が一番よくわかるから」。だから自分が勧めた酒が「うまかったよ」と言われると「酒屋冥利につきる」そうだ。

 

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安谷呉服店
安谷 行雄 氏 

プロフィール
昭和16年生。
福光で生まれ育ったが、14歳のとき、東京の学校へ転校。
以来、東京で過ごすが、
福光の女性との結婚を機に福光に戻る。

 そんなに遠い昔ではない。福光町で大麻の織物がつくられていた。耐久性があり、涼しく風通しのいい織物で、法被や甚平、畳の縁、蚊帳などに用いられた。さらに昭和天皇崩御の際、棺を担いだ皇宮護衛官の束帯がこの福光産の麻織物だった。しかし、今は大麻の皮から糸を紡ぐ人が絶え、すでにつくられていない。安谷呉服店にはその貴重な一反がある。
「福光近在で多くの農家の婦人が自宅の土間でその麻織物を織っていたものだ」と、2代目店主の安谷行雄さんは言う。「生産者の気持ちになって本物を売る」が持論。丁稚奉公の重要性を説きながらも自身にはその経験がない。27歳のとき、結婚を機に妻の実家である同店に入ったからだ。それまで呉服のことは何もわからなかったが、本物を見極める客に鍛えられた。近年は呉服の需要も見る目を持つ客も減ってきた。だが、だからこそ「の良いものを売る」という哲学を持ち、それを店のキャッチフレーズにもしている。

 

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有限会社トヤマ運動具製作所
水内 康晴 氏 

プロフィール
昭和55年生。
地元の高校から東京の大学に進学。
卒業後は地元に戻り就職したが、今春、家業である同社に転職。
事前に予約すれば見学も可。

 福光の木製野球バット生産量は、全国シエアの約4割を占める。福光でバットの生産がはじまったのは大正時代。現在、福光でバットを生産しているのは5社。トヤマ運動具製作所はそのうちの1社で、昭和45年の創業だ。大手の有名スポーツメーカーとも取引がある。同社のバットはそこからプロ野球選手の手に渡る。「テレビでうちのバットが使われているのを見るとうれしくなる」と、3代目にあたる水内康晴さんは言う。
バットは角材の状態で1年以上寝かせて乾燥させ、水分を飛ばす。乾燥しすぎると割れてしまうので「バットづくりで一番怖いのは乾燥」だという。その後、1本1本重量を量り、木目を見極め、削り、磨き、色を塗る。
実は水内さんは今春、この仕事に就いたばかり。だが、早くも福光産バットへの理解を広める活動にも取り組んでいる。今年1歳になる息子には「僕の跡を継ぐ前に、野球の好きな子になってほしい」と、目を細めた。

 

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南砺バットミュージアム
館長 嶋 信一 氏

プロフィール
昭和24年生。
小・中と野球をし、社会人の後は16年間監督を務めた。
現在は南砺市野球協会長、
富山県軟式野球連盟副会長である。

 現在、プロの野球選手が使用しているバットの4割は福光産であり、長嶋茂雄氏が国民栄誉賞に輝いたときのバットも福光産だ。それだけ愛用される理由を「福光には0.1mmの狂いも見逃さない職人がいるから」と、南砺バットミュージアムの嶋信一館長はいう。
同館は平成24年2月に開館した。老舗のバット製作所が廃業したとき、嶋館長はそこが所蔵していたバット1300本を引き取り、1年半かけてホコリやカビをとり、1本ずつ来歴を調べた。同館に展示しているのはそのうちの600本。王貞治氏、落合博満氏、原辰徳氏、清原和博氏など、往年のプロ野球選手が愛用したバットや、製造注文の書き込みをしたバットが並ぶ。「1本1本のバットにドラマがある。そこにはボールや手袋の痕、滑り止め痕があり、誰とどんな対戦をしたバットなのか想像するのが楽しい」という嶋館長。いま一番の楽しみは「幼い孫娘が大きくなったら一緒にキャッチボールをすること」だそうだ。

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池田 祐亮 さん
職業  大工

[所属]


[所在地]
富山県南砺市城端(→福光?)地域

[略歴]
富山県南砺市出身。手仕事にこだわる大工仕事に感銘を受け、大工になることを決意。大工養成の学校を経て、現在の職場で大工として従事する。全くの異業種からの転身であったが、大工となって、17年。平成25年には、その技術や経験が評価され、「第1回大文賞・奨励大工」を受賞。受賞を契機に、さらなる高みを目指し、研鑽の日々を過ごす。


【インタビューファイル】
ご紹介する南砺男子は、池田祐亮さん。たまに見せる笑顔がとてもキュートで格好ぇ~南砺男子に、大工のこと、手仕事に対するこだわり等を伺いました。


◆池田さんについて聴かせて下さい
◇南砺市出身。大工養成の専門学校を卒業し、大工になって13年。最初(社会人1年目)から大工だったわけでなく、全くの異業種からの転身です。

◆大工になるきっかけを聴かせて下さい
◇大工の手仕事を知り、自分も「手仕事にこだわって、家を建てたい」と強く想うようになったことが、きっかけです。

◆大工の手仕事について聴かせて下さい
◇墨付け、手刻み…といった、いまではその大半が機械化された大工技術のことです。墨付けは、材木に寸法の目印を付ける作業。手刻みは、材木を寸法い応じて加工する作業です。ほかにも、図面も、手書きをしているところは、少ないですね。

◆仕事を通じてのエピソードを聴かせてください
◇自分自身は、手仕事で家を建てたくて、全くの異業種から大工への転身しました。幸い今の職場との出会いもあり、一所懸命先輩大工らから手仕事を学び、数多くの経験を重ねてきました。大文賞奨励大工という、栄誉ある賞を受賞出来たことは、その努力のご褒美かなと、思ってますし、今後益々精進しようと、決意を新たにしています。

◆池田さんのこだわりを聴かせて下さい
◇「1から10まで全部、自分の手で家を建てる」これがいつか叶えたい、目標のひとつであり、こだわりですね。

◆今後について聴かせて下さい
◇いますべきことは、"技術の伝承"です。つまり、手仕事にこだわる大工を育てることです。自分が先輩大工から学んだ、貴重な大工技術は、大工技術の機械化とともに消えつつあるのが、現状です。しかも、いまの若い大工は、学ぶ機会も、学ぶ場も無いので、益々貴重な大工技術を伝えることが、困難になってきています。出来るだけ、大工技術を伝える職人や工務店等を維持し、手仕事による家づくりをされる注文者の確保等、若い大工が、学びたくても学べない環境を改善していければと思います。いま私の下で、若い大工が一所懸命貴重な大工技術を学んでいます。「どんな風に技術を教えたらいいか、日々悩んでますよ(笑)」
 

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渡辺 博之 さん
職業 庄川挽物木地職人

[所属]
わたなべ木工芸  http://www.urusitoki.jp/

[所在地]
富山県南砺市福光地域

[略歴]
富山県南砺市出身。父で、富山県伝統工芸士(庄川挽物木地・総合部門)の章司氏とともに、漆器の木地専門家から漆工房も含めた「一工房一貫製作」の工房「わたなべ木工芸」を営む。商品は主に、地元小売業者、ギャラリー、百貨店等にて取扱われている。近年は、素木(白木)の器(パン皿等)が好評であり、有名雑誌等に多数取り上げられている。


【インタビューファイル】

ご紹介する南砺男子は、渡辺博之さん。笑顔がとても素敵で格好ぇ~南砺男子に、家業のこと、仕事に対するこだわり等を伺いました。


◇渡辺さんについて聴かせて下さい
◆富山県南砺市出身で、学校卒業後に、富山県伝統工芸士(庄川挽物木地・総合部門)である父の後を継いだ、わたなべ木工芸の3代目です。

◇庄川挽物木地について聴かせて下さい
◆庄川挽物木地は、未だに昔ながらのやり方である「人の手」によって作られる伝統的産業のひとつです。わたなべ木工芸でも、ひとつひとつ手作業によるモノづくりを行っています。

◇わたなべ木工芸について聴かせて下さい
◆わたなべ木工芸の特徴のひとつは、漆器の木地専門家から漆工房も含めた「一工房一貫製作」の工房という点。木地作りから漆塗りまでを一貫して手掛けているところは非常に珍しく、当工房が唯一です。

◇仕事について聴かせて下さい
◆地元南砺での制作活動が半分、首都圏や中部などをはじめとする、全国各地の百貨店等での展示即売会でのPR活動が半分です。

◇仕事を通じてのエピソードを聴かせて下さい
◆展示即売会にご来場下さるお客様との交流は、非常に有意義です。「毎日使っているよ」と言って頂けることがとても嬉しいです。ほかの大量生産品と比べたら、値段の高いうち(わたなべ木工芸)の器ですが、ファンの方々は、その良さを理解して下さり、そして毎回の食事で使って下さる。お客様の豊かな人生、幸せな食事のひと時のお役に立てているんだと、お会いする度に実感します。

◇渡辺さんのこだわりを聴かせて下さい
◆アフターケアには、こだわって(大切にして)います。お客様の下で、使い込まれた器と再び出会う瞬間は、毎回ドキドキします。3年、5年、・・・と年数を経たうちの器がどんな風に変化しているのかを知ることが出来ます。私らは、生まれたての瞬間の姿しか、本来見ることが出来ない。でも、アフターケアをすることで、変化(成長)した姿を見ることが出来ます。まさに、至福の瞬間です(笑)。さらに、より使いやすくなるように手を加えることで、10年、20年・・・と末永くお使い頂けるのですから。

◇今後について聴かせて下さい
◆自分は、作家でもなければ、職人(伝統工芸士)でもない。普通の人。だから、「丁寧に、真面目に、誠実に」仕事をする。誤魔化した仕事はしたくない。欲しいと思って頂ける人に、真心込めて、作ってあげたいと思っています。それと、色々と情報発信もしていきたいと考えています。まずは、自分の身近な人たちに自分のやっていることを知ってもらいたいと思います。なぜなら、自身の仕事のことがまだまだ知られておらず、知らないことによる様々な「誤解」が生まれ、知らないうちに自分との間に高い壁(敷居)ができてしまっていると感じるからです。だから、誤解を解くためにも、そして、もっと身近に感じてもらうためにも、情報発信をしていこうと思います。知ってもらい、興味を持ってもらえれば、いずれ買ってもらえるでしょ!!(笑)

 

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坂井  晋 さん
職業  野菜生産農家

[所属]
ログログファーム  http://loglogfarm.net/

[所在地]
富山県南砺市福光地域

[略歴]
富山県南砺市出身。県外の学校を卒業後、県内の農家での農業研修を経て、家業の農業に従事する。有機栽培にも着手し、有機栽培愛好家グループの創設や、有機JAS認証の取得を果たす。


【インタビューファイル】
ご紹介する南砺男子は、坂井晋さん。野菜を見つめる眼光が鋭く格好ぇ~南砺男子に、農業のこと、有機栽培に対するこだわり等を伺いました。


◆坂井さんについて聴かせて下さい
◇富山県南砺市出身で、県外の学校を卒業後、県内の農家で主にほうれん草についての農業研修を受けたのち、実家の農業を継ぎました。

◆ログログファームについて聴かせて下さい
◇我が家は、元々タバコの葉、干し柿を生産していました。これらの生産以外の閑散期に葉葉物野菜の生産を始めたことが、ログログファームの始まりです。ちなみに、"ログログ"という名称は、濁音を繰返すのが良い、と仰る方からのアドバイスです。

◆仕事について聴かせて下さい
◇ログログファームでは、毎週、県内・関東・関西の会員に向けて野菜の詰め合わせを発送しています。この野菜の詰め合わせ「南砺!こだわり野菜便」は、有機JAS認定農家であるログログファームが、季節ごとの旬なおすすめ野菜を、生産から袋詰め、箱詰めまでを一貫して行います。そして、発送日に収穫することにもこだわっています。このこだわりは、食卓に「安心」と「安全」と「美味しさ」を届けることを、一番大切にしたいという思いから行っているものです。

◆有機栽培について聴かせて下さい
◇有機栽培に対するこだわりとしては、化学肥料を使用せず、自家製米ぬかぼかし肥や自家製液肥を使用したり、化学合成農薬は不使用を原則とし、自然農薬を散布して防除を行ったりしているということです。

◆坂井さんのこだわりを聴かせて下さい
◇有機JAS認定を受けるということは、色々な作業が必要となり、結果的に農作業全体の労力が増えます。しかも、有機JAS認定を受けたから生産量が格段に増えるとか、販売価格が高くなるというものではないのです。でも、有機JAS認定を受けたのは、とても単純な理由で、農薬をかける作業をすれば、自分自身にも農薬がかかるし、自分自身が農薬のかけられた野菜を食べたくない、という想いからです。

◆今後について聴かせて下さい
◇「南砺!こだわり野菜便」にはしっかりこだわっていきたいです。積極的に会員数の増加を目指すのではなく、会員の方々に満足して頂くことを一番に取り組んでいきたいと思います。いまは、地元(農家)直送、無農薬、味、見た目・・・色々なことに、こだわりが必要です。『○○だから!』だけで売れる時代ではなくなりました。「消費者に求められるものを作る!」ためにも、ウチと同規模の農家が集まって、取り組めたらいいなと思います。その為にも、若者などによる新規就農者の確保などにも、積極的に関われたらと思います。
なにより、野菜作りは、日々育つ姿を目の当たりにできることが、とても大きな喜びです。手塩をかけて育てたログログファームの野菜が、食卓に「安心」「安全」「美味しさ」を届けるのだ!という想いで、これからも南砺から発信していきたいと想います。


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棚田  隆 さん
職業  な〜んトマト農家

 

[所属]
な~んトマト

[所在地]
富山県南砺市福光地域

[略歴]
富山県南砺市出身。水稲栽培(米作り)中心の農業から、2007年から露地でのトマト栽培開始。2012年からは、県のとやまの園芸ブランド産地強化事業の支援を受けて、中玉品種フルティカや大玉品種、ミニトマトなどを栽培。「な~んトマト」のブランド名で、道の駅福光や市内外のスーパーなどで販売を開始。現在さらなる販路拡大や市内飲食店との連携等による六次産業化などに取り組む。とても爽やかな甘さが好評で、特に子供やお年寄りに喜ばれている。



ご紹介する南砺男子は、棚田隆さん。南砺での産地化を目指し、トマトの新ブランド「な~んトマト」を誕生させた棚田さんは、な~んトマトに対する想いは強く、な~んトマトの樹と会話が出来てしまう程。な~んトマトで南砺にヒトを呼び込むことを真剣に考える格好ぇ~南砺男子に、な~んトマトのこと、南砺に対する想い等を伺いました。


◆棚田さんについて聴かせて下さい
◇富山県南砺市出身。元々、水稲栽培(米作り)を中心とした農業に携わっていましたが、2007年から始めたトマト栽培をきっかけに、国内有数の生産地である愛知県のトマト栽培を研究。2012年に、富山県の支援事業を活用して、トマトの新ブランド「な~んトマト」を誕生させました。現在、生産量や販路の拡大と地元飲食店との連携による六次産業化などを目指し、試行錯誤の日々を過ごしています。

◆な~んトマトを作るきっかけを聴かせて下さい
◇元々行っていた水稲栽培の現状は非常に厳しく、水稲栽培の将来をとても憂いていました。そこで、現状を打破すべく、周年栽培が出来て、なおかつ高単価となる(収益の出せる)、新たな農作物の栽培を始めることなり、その農作物がトマトでした。

◆な~んトマトの栽培について聴かせて下さい
◇特に栽培において着目しているのは、気温です。愛知県と南砺との日中、夜間の気温差を活かした栽培方法を見つけ出すこと、即ち冬の南砺での効率的で、美味しいな~んトマトの作り方を探しています。ウチのビニールハウスは、温度、水、養分などあらゆる管理をビニールハウスの入口にあるコンピューターで行っています。機械工場みたいなものですね(笑)。コンピューターで管理したデータは、きちんと収集・分析していますので、いずれはこの栽培方法をしっかりとマニュアル化出来ればと思っています。

◆棚田さんのこだわりを聴かせて下さい
◇まずは、子供やお年寄りが喜んでくれるな~んトマトを作りたいですね。単に、トマトを美味しくするだけのやり方は色々あります。けれども、本当にそのやり方で美味しいトマトが出来るのか?と疑問に感じたので、違う考え方を試みているんです。曲がった野菜には、曲がる理由があって、それはつまり何かしらのストレスが生じているということ。ストレスのある野菜は美味しくない。トマトで言えば、無理矢理美味しくしようとすると、皮が硬くなる。ストレスのない、無理矢理ではない方法で、甘く美味しいトマトを作る工夫をしています。
あとは、収穫時期にしてもこだわります。トマトは完熟で収穫することがとても重要。フルーツが美味しいと言われる産地では、やはり完熟獲りを実践しています。私が目指すは最短、収穫から3日で食卓へ届けることですね。鮮度を守るためにも、収穫したな~んトマトの保管場所の温度管理も徹底しています。

◆今後について聴かせて下さい
◇販売促進活動にも積極的に参加してます。県内各地のスーパーなどへ、市場などと協力して出掛けていき、試食&販売会を実施しています。直接お客さんの反応を見ることが出来る良い機会なので、とても有意義ですよ。何より「トマトのことについて真実を語れるのは、現場を知る農家だけでしょ!!」
それと、なんとしても実現したいのは、な~んトマトで南砺(富山)にヒトを呼び込むこと。例えば、な~んトマトが食べたいから、産地である南砺を訪れる、みたいな、な~んトマトが南砺(富山)への誘客のツールとなることですね。


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山田 圭祐 さん
職業  温泉旅館料理人

[所属]
川合田温泉  http://www.kawaidaonsen.com/

[所在地]
富山県南砺市福光地域

[略歴]
富山県南砺市出身。石川県内の大手温泉旅館にて修行した後、家業の温泉旅館へ戻り主に料理を担当する。既存の地元で採れた川魚や山菜を用いた料理メニューのほか、新たに和洋折衷メニューの開発などを手掛ける。開業53年(開湯156年※推定)の老舗温泉旅館の3代目。


【インタビューファイル】
ご紹介する南砺男子は、山田圭佑さん。寡黙ながら、旬の食材を活かしたメニュー作りを日々試行錯誤する、地元の食材にこだわる格好ぇ~南砺男子に、旅館のこと、食材に対するこだわり等を伺いました。


◆山田さんについて聴かせて下さい
◇富山県南砺市出身。石川県和倉温泉にある大手温泉旅館(温泉宿)で6年間修行して、現在に至ります。主に調理担当で、旬の食材を活かした料理を提供しています。時間があれば、地元食材と新たな食材を用いた新メニューの開発などをしています。

◆修行時代のエピソードを聴かせて下さい
◇いずれ家業を手伝うことを前提に、修行に出ていました。修行を終えて家業に携わるようになって色々と戸惑うことがありました。例えば、規模の違いです。修行をしていた大手温泉旅館は、とても有名なお宿で、規模も大きいものでした。食材の仕入れ、下準備、実際の料理まで、とにかく量が物凄かったです。大鍋で、何十人前、何百人前を毎日のように手掛けていました。ですから、料理における基本的なものさし(基準量)も、当然大きなものが身に付きました。ところが、家業の温泉旅館では、数人前から十数人前が主流でしたので、修行時代と同じ感覚では、味付けの仕方や加工の手順など、色々な部分でこれまでと勝手が違い、ものさしが通用しないことに戸惑いました。

◆仕事について聴かせて下さい
◇地元の食材である川魚や山菜を活かした料理を作っています。特に山菜が豊富に採れる時期は良いのですが、時期の後半になって地元のものが少なくなってくる頃が毎年悩ましいです。少しでも長く、少しでも美味しい状態で召し上がって頂くために、保存方法などにはとてもこだわっています。冷蔵保存するものや、常温保存するもの、新聞紙で包んだり、と色々な山菜に応じた技術を父から学んでいます。

◆今後について聴かせて下さい
◇これまで修行していた温泉旅館では、料理のことだけに注力出来ましたが、現在は将来家業を継承する立場として、経営のことについても色々と関わるようにしています。食材を仕入れる時も、「良いものだから高くても」ではなく、「良いものをいかに安く」や「安価だからそれなりの味ではなく、いかに食材の持ち味を引き出し、美味しく料理するか」など、コストも意識したうえで、食材や料理方法と向き合っていかなければいけないと考えています。
また、地元の旬の食材を使った料理を提供する形で、長年温泉旅館を営んでいます。親・子・孫といった何世代にも渡って通ってくださるファンもいらっしゃいます。特に当旅館は「山菜と川魚の宿」として、皆様に支持されています。食材が豊富に採れる時季は良いのですが、食材が無い時季こそが、大切で、食材が無いからと諦めず、少しでも長く、そして美味しく食材を楽しんで頂けるために、保存方法や調理方法の工夫などにもっとこだわっていきたいです。


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河合 崇行 さん
職業 造園家、庭師

[所属]
福野夜高太鼓保存会

[所在地]
富山県南砺市福野地域

[略歴]
富山県南砺市出身。南砺市の神事、福野夜高祭りで叩かれる夜高太鼓の音色に魅せられ、幼少期より夜高太鼓を打ち鳴らす。また、福野夜高太鼓保存会員として、少子化に伴う担い手の減少を食い止めるべく、地元地区のみならず、他地区の小中学生にも積極的に指導を行い、伝統ある福野夜高太鼓の伝承に努めている。


【インタビューファイル】
ご紹介する南砺男子は、河合崇行さん。造園のお仕事で鍛え上げられた筋肉が魅力的な格好ぇ~南砺男子に、福野夜高祭りのこと、福野夜高太鼓に対するこだわり等を伺いました。


◆河合さんについて聴かせて下さい
◇富山県南砺市出身で、学校卒業後、父で造園家・庭師である基之氏とともに、南砺市内を中心に造園業を営んでいます。また、毎年5月1日、2日に行われる福野夜高祭りで叩かれる福野夜高太鼓保存会の一員として、小中学生を中心に太鼓の指導等も行っています。

◆福野夜高祭りについて聴かせて下さい
◇江戸時代中期から続く、富山県南砺市福野の祭で、毎年5月1日、2日の夜に行燈型の山車の練り回しが行われ、3日の日中には4基の曳山が巡行する神明社の祭礼です。行燈は、木枠や竹枠、針金を用いた型枠に彩色した蝋引き和紙を貼って造られ、高さ2丈1尺の大行燈7基、中行燈3基、小行燈13基、合計23基が町内を練り廻ります。

◆福野夜高祭りでのエピソードを聴かせて下さい
◇福野夜高祭りのエピソード言えば、やはり行燈同士のケンカ(引き合い)でしょうね。自分の地区(御蔵町)は、ケンカがないの地区なので、自分自身の体験としてケンカを語ることは出来ませんが、その分冷静に他地区のケンカを見ることが出来ます。地区ごとにケンカのスタイル(特徴)が出ているのは、とても面白いですよ。ガラが悪く、終了の合図が鳴ってもしつこく続ける地区とか、行燈に同行するOB同士が、ケンカの前から些細なことをきっかけに、小競り合いを繰り広げている様子とか、色々と楽しめるポイントが満載です。大の大人が、真剣にクチ喧嘩をしているんですから(笑)

◆河合さんのこだわりなどを聴かせて下さい
◇積極的に福野夜高太鼓に関わるようになったきっかけは、当時夜高太鼓を指導していた地元地区の大人の方に、叩く姿、太鼓の音色、バチさばきなどを褒められたことです。自分の太鼓が褒められたという体験は、自分自身が認められたという感覚に繋がり、もっと格好よく、もっといい音色を、もっと上手にと、自らを高める思いに繋がりました。今度は、自分が子供たちに教える立場になったので、教える子供たちにも自分と同じように、福野夜高太鼓との出会いが自らの向上心に繋がるようなきっかけになるように、心掛けて接しています。

◆今後について聴かせて下さい
◇福野夜高太鼓は、現在少子化の影響を強く受けていて、祭りで太鼓を叩く担い手が不足しています。少子化を食い止めることは容易では無いですが、これまで地元の小中学生を中心に行っていた太鼓指導を、地元以外の小中学生にも行うことで、少しでも多くの小中学生に福野夜高太鼓に興味や関心を抱いてもらえればと思っています。そして、この取り組みによって、太鼓に興味や関心を抱いてくれた子供が、祭りで叩いてくれるようになったら、とても嬉しいですね。

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城端曳山会館
館長 山下 茂樹 氏

 城端曳山(国重要無形民俗文化財)は約300年前に招福除災を願う町民達の手によってはじまった。曳山は京文化、付随する庵屋台は江戸文化の影響を受け、当時加賀藩の厚遇を受けていた腕のいい大工や塗師達がその両文化を融合させ、城端ならではの絢爛な山車をつくりあげた。町内6地域にそれぞれ山車があり、神像は恵比須(西上町)、堯王(西下町)、寿老(東上町)、大黒天(東下町)、布袋(出丸町)、関羽(大工町)だ。
「どの神様も八頭身でイケメン揃い」と、山下館長は自慢する。館長になったのは昨年4月。だが、曳山とのつきあいは半世紀を超える。小学生の頃は曳山の上部に乗り、夜の巡行を彩る行燈が燃えそうになると、下に投げ落とす役をした。現在は大黒天を背負って山宿から曳山に移す役を担う。大黒天は、山下館長の地元東下町の神像だ。重さ100kg。周囲に支えられながら這うようにして背負う。神の存在の重さが「腰にくる」らしい。

 

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じょうはな庵
松平 保夫 氏 

 じょうはな庵の築造は明治38年。代表的な町家建築で、通り側からミセ、ブツマ、ザシキと続き、その先に中庭がある。雪の重さに耐えられるよう登り梁があるのも特徴のひとつだ。昔は隣家が飯方(五箇山の農民を対象とした高利貸し)をしており、ここはその分家。長らく空き家だったが「町並みも文化であり、昔ながらの町家は曳山祭りに欠かせない祭りの設えのひとつ」と考えた松平さん達有志3人が持ち主と交渉して借り受け、「じょうはな庵」と名づけた。曳山祭りの際はミセの戸を全開にし、庵唄所望も行った。
日頃、松平さんはじょうはな庵にいる。そこで自分の足で探し歩いた「城端百景」を、五箇山和紙を用いて版画にしている。もともとは趣味で版画の年賀状を出していたことがきっかけだ。当初は一景のつもりが、好評のため、いつの間にか百景になった。素朴で味わい深い版画は、城端の町そのものの趣とともに松平さんの人柄とも重なる。

 

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城端庵唄保存会
会長 長谷川 一司 氏

 城端曳山祭りの際に唄われる庵唄のルーツは江戸端唄。そのほとんどが恋の唄だ。江戸時代、城端絹商人が当時江戸で流行っていた端唄を故郷に持ち帰った。江戸の粋に城端の鄙びた趣が加わり、独特の典雅さを持つ城端庵唄となった。祭りではその「庵唄所望」ができる。所望した家に庵屋台が横づけし、庵唄を披露する。家人は自宅にいながら料亭で遊ぶ気分を楽しめるのである。
保存会ではそんな庵唄を次世代に継承しようと、2~3年かけてCDを制作した。
「僕が20歳で三味線をはじめたとき、『遊び人になるよ』と言われ、やっぱりなった」と長谷川会長。庵唄を唄う若連中は毎年、東京から高名な長唄の師匠を招いて稽古をつけてもらう。その師匠と知り合ったのも金沢の料亭で遊んでいたことが縁。「城端曳山は神様の遊びに庵唄というお茶屋遊びを取り入れたもの。神様を引き連れて(庵屋台は曳山の前を巡行する)のお茶屋遊びは楽しい」と笑う。

 

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(有)田村萬盛堂
店主 田村 悟敏 氏

 菓子蔵処「田村萬盛堂」の創業は寛政年間(1789~1801年)である。当時、善徳寺の山門前では博打が盛んで、そこへあんもろ餅を売りに行っていたという。後に博打を打つのは盆の8月15日のみとされた。現在では博打を打つ人はいないが、盆にあんころ餅を食べるという風習だけは残った。そのきっかけは同店である。同店にはまた、江戸末期から昭和にかけての和菓子の木型を収蔵する富山県唯一の木型館がある。落雁用、干菓子用、練切り餡用など1200点のうち約300点が展示され、木型職人の精巧な技と華麗な菓子文化を垣間見ることができる。
「僕は仕事じゃなくて道楽しているだけ」と8代目にあたる現店主はにこやかに笑う。だが、自身の石好きが高じて製作した銘菓「木の葉石」は内閣総理大臣賞を受賞。微細な米粉が開発された途端、米粉ロールケーキを製造するなど、田村店主の柔軟な発想と行動力には定評がある。それがおいしい味となる。

 

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小原 好喬 さん

 職業 城端蒔絵 塗師屋治五右衛門16世

[所属]
城端蒔絵 塗師屋治五右衛門16世
https://www.facebook.com/jigoemon?fref=ts

[所在地]
富山県南砺市城端地域

[略歴]
富山県南砺市出身。県内の学校を卒業後、石川県にある漆芸技術専門研修所を経て、家業である城端蒔絵の16代目として、活動を開始する。伝統ある城端蒔絵の継承者として制作活動等を行うとともに、地域文化の伝承者として、役割を担うべく、多方面での情報発信を行う。


【インタビューファイル】
ご紹介する南砺男子は、小原好喬さん。地元を誰よりも愛し、また一子相伝の技法として守り、受け継がれてきた城端蒔絵の16世としての使命に燃える格好ぇ~南砺男子に、城端蒔絵のこと、南砺の魅力等を伺いました。


◆小原さんについて聴かせて下さい
◇富山県南砺市出身。幼少期に祖父(14代小原治五右衛門)と過ごすことで、城端の文化や家業である城端蒔絵等について、色々と学びました。県内の学校を卒業後、石川県内にある漆芸技術の研修所で、数多くの人間国宝と呼ばれる方から漆について学び、修了後は、南砺へ戻り家業である城端蒔絵に本格的に携わるようになりました。

◆城端蒔絵について聴かせて下さい
◇城端蒔絵は「城端塗」または「治五右衛門塗」とも呼ばれ、美術工芸界に特異な存在として知られており、一般の蒔絵とは趣を異にするものです。元来、漆で発色することのできるのは、朱・黒・黄・緑・茶の五彩に限られ、白を発色することは不可能とされていましたが、城端蒔絵はこの白色を表すことを特色とし、花鳥文様などを描いて生態そのままの色調ぼかしを表現する彩漆蒔絵技術を一子相伝の秘法として今日まで伝えています。これには、初期の作品に多く見られる「密陀絵法」と、それを基にしてさらに工夫を加え創出された、中期以降の作品に多く見られる「白蒔絵法」とがあります。蒔絵とは本来、漆で文様を描きその上に金銀の粉を蒔き付ける技法ですが、加賀藩では加賀蒔絵保護のため藩外での金銀の使用を禁じました。豪奢な加賀蒔絵に対して、城端蒔絵は白をはじめ各種の色彩を自由に駆使し、瀟洒で雅味のある独特の様式を案出したのです。
城端蒔絵は天平の密陀絵の再現にはじまり、それに基づき白蒔絵法を編み出し、各代の造形感覚により創意工夫を加え、小原家一子相伝として継承されてきました。明治維新の改変や戦後の変動期にも絶えることなく今日まで439年間伝統のあかりを守っている、工芸の分野では極めて特異な例なのです。

◆小原さんの活動について聴かせて下さい
◇メインの活動は、製作です。日中は何かと忙しいので、主に夜の静かな時間帯に行うことが多いですね。それから近年多いものに、講演活動があります。こちらは、将来の南砺を担う若者(中学生)から、大人の方まで幅広い方々にお集まり頂いております。講演の内容は、時々で変わりますが、例えば、城端蒔絵のことを中心に、漆・漆器のこと、その時代毎の小原治五右衛門の活動のこと、私の手掛けた作品をご覧頂いたりしています。そのほかには、雑誌・新聞社等のマスコミの取材対応、(南砺市を訪れた)客人への対応を行っています。

◆小原さんの南砺へのこだわりについて聴かせて下さい
◇ヒトの魅力が一番ですね。ひとりひとり、同じヒトはひとりとしておらず、ひとりひとりがとても個性的です。例えば、飲食店を例に挙げると、それぞれの味があって、店主のアジ(個性)があって、人間味がある…つまり、ヒトやモノが画一化されていないという部分が、私が南砺にこだわる理由のひとつです。そして、その個性が集まったもののひとつが、私の先祖が代々関わってきた城端の曳山だとおもいます。幼少期の私は、大好きな乗り物を尋ねられると、大工町の曳山(千枚分銅山)と答えるくらい、曳山が大好きでした。そして祖父の膝の上で、色々な好人についての話を聴き、南砺について興味関心を深めていきました。その体験も、南砺にこだわる理由のひとつになるのでしょうね。
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南砺男子おすすめグルメ★★★
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Gelateria Zucca 
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茶ぼ~ず