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今も昔も心の拠りどころ・善徳寺と瑞泉寺をたずねて

 

とやまに浄土真宗を広めた、
城端別院善徳寺と井波別院瑞泉寺

富山県は、親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗の信仰文化が強く根付いている地域だ。県西部の南砺市には、その宗派のひとつである「真宗大谷派」の「善徳寺」と「瑞泉寺」がある。どちらも東本願寺からの命を受け、越中東方寺院の触頭役(ふれがしらやく)を務めた。本山からの教化を広め、地域内の中心道場として重要な役割である。

 

今回は、共通項の多いその2つの寺院をご紹介する。 ただ、よく思うのだが、ふらりと寺院へ行っても、知識が少ないと楽しみ方が分からない。見落とすポイントもいっぱいあるだろう。だから、お金を払ってでも事前に予約をして、解説を受けられる見学コースに参加するのがおすすめだ。

 

民藝運動の提唱者・柳宗悦による
「美の法門」が生まれた場所

まずは、南砺市・城端の大通りから少し奥まったところにある城端別院善徳寺を訪れた。1471年、念仏のお教を広めるために、本願寺第8代蓮如上人によって建立された寺院である。今回、案内してくれるのは、今井千信さん。年間約2,000人は事前予約で案内しているそうだ。そのうち、7割は県外の参拝客が占める。

 

1559年に、この城端の地に移築して以来、1度も火災で焼失したことのない本堂では、お勤めと法話が365日行われている。浄土真宗への信仰はもちろんのこと、多くの人にとって善徳寺は想像以上に身近な存在のようだ。まずはここで合掌をし、対面所へ。

 

対面所は、13代加賀藩主の10男である亮麿を16代住職として迎えた際に改築が行われた、格式の高い部屋だ。

 
「対面所は、御本山のご門主やご蓮枝、加賀のお殿様と対面する場所でした。天井の柄は大谷家の家紋である牡丹が用いられ、欄間には加賀藩の家紋・梅鉢紋を表す梅の彫刻が施されています」

 

「御殿」は、前述の亮麿を住職として迎えた際、日常的に使用する場として建築された部屋だ。当時、2歳だった亮麿に、どんな部屋が用意されたのだろうか。

 

「天井には板ではなく襖が貼られ、床下にはシジミの貝殻を大量に敷き詰められ、外部から人が侵入できないように造られています。16代亮麿をお守りするため城御殿のように作られています」

 

加賀藩2 代目藩主前田利長が鷹狩の際に宿泊したといわれる「大納言の間」もあり、一段高く施工された床や格天井などに武家の特色が見られる。

 
「釘隠しがウサギとナスなんですよ。前田利長公の好みなのかもしれませんね。現在は仏前結婚式のときの撮影場所として利用されています」

 

善徳寺は、前田家との関わりの深さを今に伝える部屋が多いのが特徴だ。その歴史にユーモアを交えた今井さんのお話を聞いていると、善徳寺の歴史が近しいものに感じられる。

 

そして最近は、民藝運動の提唱者・柳宗悦目当てで訪れる人が多いという。そんな人たちが歓喜の声をあげるのが、柳宗悦が集大成となる論考「美の法門」を書き上げた「大広敷」である。

 
「1948年7月に「美の法門」を書き上げましたが、執筆に3日かけたという説があれば、30日かかったという説もあります」

 

そう言って差し出された「色紙和讃」は、周囲に膠が塗られ、その上から金銀を塗り重ねて作られている。和讃本の表紙には手の跡が今も残り、長い時間を超えるかのようだ。この本物は普段は見られないので、見たい人は「虫干法会」の時に来てほしい。

 
「虫干法会」とは、古文書や什器など約900点の宝物を、1週間にわたって一般公開する1年に1度の大行事。解説員が、法宝物の解説を行い、僧侶が絵解きを行う。また、会期中には地元の男性たちが力自慢を競う盤持大会が催され、城端別院名物の「鯖のなれずし」を味わうこともできる。

 

再建以来、1度も火災で焼失したことのない善徳寺には、まだ見どころがある。そのひとつが、「茶室」だ。

 
「土壁の上に塗装された錆色は、今はもう作れないんですよ。茶室は300年ぐらいの歴史があるのではないかと言われているんです。障子越しに庭もご覧ください。金沢市の兼六園を造園した能登の駒造が造ったもので、遠くの山も庭に見立てられる借景の庭。またもともとある樹を利用して作られているのが特徴です。」

 

また、樹齢363年の糸桜や、江戸時代後期に加賀藩から寄進された「兼六園の菊桜」もある。春には苔と相まって、独特の風情を醸すという。それが楽しめるのが、4月の「しだれ桜まつり」。そのときだけ式台門が開き、この庭でお茶会や雅楽の演奏会が催される。 春の善徳寺も興味深い。

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真宗大谷派 城端別院善徳寺

開基から540余年を経た真宗大谷派の大刹。
料金:拝観案内400円(要予約)
詳しくはこちら

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城端別院善徳寺で腕輪念珠づくり

ゆったりとした時間の流れる異日常の空間で、じっくりと自分と向き合う「腕輪念珠づくり」をお愉しみ下さい。
料金:6,000円(税込)
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聖徳太子への信仰心を、
井波彫刻の技で表現

井波彫刻の発祥地として名高い真宗大谷派「井波別院瑞泉寺」は、1390年、本願寺5代綽如上人によって開かれた。山門から入り参拝受付で1人500円支払う。このお金を参拝志というそうだ。輪番の常本哲生さんが案内をしてくれた。案内してもらいたいときは、あらかじめ予約をしておくとよい。

 

先の善徳寺との大きな違いは、3度の火災に遭っていることである。

 

「本堂は焼けるたびに大きくなり、現在の本堂は、木造建築としては日本で4番目に大きい建物です。明治13〜18年にかけて骨組みを作ったため、直径65〜70cmの太い柱には当時の人たちの思いが息づいています。その後、彫刻や格天井が造られ、今の形になったのは戦後間もなく。繰り上げ格天井は、井波大工の仕事ですね。京都から大工が派遣され、井波大工を指導して井波彫刻が発展していきました。それは火事により瑞泉寺が再建されたおかげでもあります」

 
瑞泉寺は、1710年頃に始まったと伝えられる伝統演説「太子伝会」が有名だ。聖徳太子の一生が描かれた御絵伝を元に絵解き説教が行われ、聖徳太子二才像のご開扉が行われる。だが、浄土真宗の寺院で、なぜ聖徳太子が信仰されているのか、不思議に思う人もいるのではないだろうか。

 

「聖徳太子の前世は、救世観音菩薩。世の中の苦しむ人々を救うために、人として生まれ2歳で初めて念仏を唱えたと言われています。親鸞は、日本に仏教を伝えた聖徳太子を敬っていたので、瑞泉寺には聖徳太子の信仰がずっとあるんです」

 

隣接する「太子堂」は、井波彫刻の技術を生かして1918年に再建され、現在は日本で一番大きい太子堂である。五箇山の雪持林を切ってまで多くの人の寄進を賜ったという熱意に、当時の人々の聖徳太子への信仰の深さが伝わってくる。しかも、太子堂内を明るく照らすために、内縁にトチという白い木を使うなど、細部まで抜かりがない。先人の知恵と技に驚きつつ、内縁から上を見上げてみよう。

 

「十二支の井波彫刻を見られます。見上げる人との距離を考えて彫られているんですよ。大工にとって聖徳太子は、ものづくりをする者として、また人間として師と仰ぎ見る存在でした。太子堂というステータスのある場所に自分の作品を飾れるチャンスだったのでしょう」

 
なかでも傑作は、手狭彫刻(たばさみちょうこく)だ。井波彫刻を広めた時代の大工が手がけた歴史の教科書である。中が空洞になっているため、春にツバメが巣を作ることもあるという。ツバメの繁栄にもひと役買っているのだ。

 

太子堂の中には、聖徳太子の尊像が安置されている。本物を見られるのは「太子伝会」の時のみだが、その1/4サイズの像はいつでも見られる。雪のように白い肌が印象的だ。

 

「欄間は、一番ごまかしの効かない白木で作られています。大工が命がけで彫ったことの証といえるでしょう。裏と表で柄が分かる両彫りになっています。また、菊の紋章は、聖徳太子を敬う心の表れで、屋根の上にも見られます」

 
善徳寺では今も1日2回の法話には市内外の人たちが訪れ、瑞泉寺の本堂には近くの寺院の門徒の人たちが作った座布団や毛糸の靴下が自由に使えるようになっていた。今も昔も多くの心の拠り所となっている2つの寺院。ちょっとしたポイントに興味がわいたら、ぜひ訪ねてみてほしい。気軽に楽しめる体験も実施している。

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真宗大谷派 井波別院瑞泉寺

1390年に創建された、井波彫刻誕生のきっかけとなった寺。井波彫刻の粋を凝らした装飾を数多く見ることができます。
料金:500円
詳しくはこちら

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井波別院瑞泉寺で写仏と写経

ゆったりとした時間の流れる異日常の空間で、じっくりと自分と向き合う「聖徳太子二歳像と和讃の書き写し(写仏・写経)」をお愉しみ下さい。
料金:おひとり様4,600円(税込)
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